改めてパラパラとページをめくっていると、鉛筆でのメモ書や蛍光ペンでのマーキングが所々にあったので、目次ごとにそれらを抜き書きしてみた。丸括弧内は私のメモ書き、カギ括弧内は著書からの抜き書き。
- 哲学はどうやってはじまったのか?
(古代ギリシャから今にいたるまで、哲学は価値観がゆらぎ始めるときにはじまる) - 哲学するってどんなこと?
(哲学とは、自分の内側から聞こえてきた問いかけに耳を澄ますことだ) - 哲学の特徴はどんなところ?
「第一に、だれにとっても大切なことを、だいたんにストレートに問う」
「第二に、常識や権威ある人の意見をそのまま信じ込まない」
「平易な言葉で、すっきりした理屈で、しかも深い考えを育てていきたい」 - 考えても「無駄」なんじゃない?
(だれでも悩むときがある。そのときは考えているはず。答えが出そうもない時は、どうしてそう問うのか、と視点を変えて問うて見ると答えに近づくかも知れない) - 生きている意味はどこにある?
(例えば、「ニーチェの主著「ツァラストゥラ」には、苦悩の人ニーチェがつくりだした結晶のような言葉がいくつも入っている。」) - じぶんを問うこと・普遍的に問うこと?
(真・善・美が何であるか?よりも、それらを感じ取ること自体には普遍性があるということに気付く方が大事) - どこから。どうやって考えていけばいいのか?
(一切は、意識にとっての現象として登場する。・・・フッサール) - 絶対にただしい知識なんてあるのかな?
「この二つ(キリスト教の影響とユークリッド幾何学)があいまって、近代という時代は、唯一の客観的現実を反映した絶対にただしい知識が手に入れられると信じ、それを求めたのである。」
(実験と観察で確かめられた知識は、経験の積み重ねで変更しうるから絶対にただしいとは言えない→科学の世界)
(人間の心の世界は、数学でも科学でも扱えない部分が殆ど、というより、まずは問いの意味を問うことから始めよう) - 科学は世界を説明しつくせるか?
(この問いは、説明しつくせるかも知れないと思っていることが前提になっているが、何故そう感じるのか、と問う方が面白いなぁ) - 宇宙には「はじまり」があるか?
「この難問に、どう答えるか。ぼくのみるところ、他を圧倒してすごい答え方をしのは、ブッダとカントである。二人の答え方はそれぞれちがうけれど、共通しているのは、「まともに答えなかった」ということだ。」
(まともに答えない、その理由に問いへの答えの本質がある、と著者は言っている)
(現代もその問いへの追求が続いている。実験と観察という経験の積み重ねは人間にとっての世界認識を変えていくと思うから、その問いは無意味であるということではない) - 「究極の問い」はどこにいきつくか?
(究極の問い、世界の始まり、世界の果て、物質の始原物質、の問い、はなぜ問うのかと言えば、それを知りたいから、つまり欲望、従って人間の心、つまり、問いの対象は、そのような問いを生じる人間、究極の問いは人間に行き着くのだ)
(カントの場合には、そのような問いは人間の理性のなせるわざで、この問いには答えがないことを示したところが面白い) - 自由な意思なんて存在しない?
(物理学的世界は一切が決定されているから、そこには自由はない。すると、人間は物理学の法則に従っているから、人間の意思に基づいた自由というものはない、という論理が成立しそうになりそうだ。ところがどっこい、物理学的世界は人間の経験の世界なのだから、法則の成立の前に人間の経験が先行していることになって、この論理は破綻している。)
(ところで、どうしてそういう論理に陥りそうになるのか、それは科学の発達の結果が巨大なので、科学の本質をかえって理解出来なくなるからだろう。巨大とか偉大とか権威とか権力とかに惑わされないで自分で考えることこそ、もともとの科学的、同じことだが哲学的態度だ) - 主観は客観に到達できない?
(主観は心、客観は心とは別のとことにある事実、となると一致するとはどういう意味だ?それは真理であるという意味を持つ。主観と客観の一致はこんな感じ。)
(近代学問の父デカルトは、心身二元論で心と物を分けてから、嘘をつかないハズの神の保証のもとにこれを一致させることが出来るので、主観と客観が一致して真理を知ることができる、と同時に、意思の自由もあると考えたそうだ。だが、この理屈には宗教が人の命を支配していた時代背景がありそう。デカルトの思考のアタリは、とにかく人間は主観から出られないこと、ハズレは主観と客観の一致が真理を意味すると考えたとこ) - 〈物〉と〈心〉、どちらが根本か
(そりゃ〈心〉だろ、と考えられなくなってくるのは、淺知恵がついたためかも。でも〈心〉だとすると、真理は〈心〉変わりすると変わってしまうような、危うく頼りないものに成り下がるかも)
(ご心配なく、私の好きな、数学者でもあるフッサール先生が”心配ご無用”と言ってくれている。つまり現象学はこの謎を解いた)
「その(現象学)というネーミングは、一切の対象は意識において現れるもの(神的現象)である、というところからつけられた。」
「《現象学》は、「向こう側に存在するだろう唯一絶対の真理」を求めることから、問いの方向を大きくじぶんの方へと転換した。〈唯一の真理・正義は何か〉ではなく〈なぜ私はこれが真実だと思えるのか〉〈なぜ私はこれをよくないと感じるのか〉と問う。・・・それとともに、他人を問うて見る。〈なぜあの人はこれをよくないことだというのだろうか〉。どういう条件のもとにその人は、またわたしは生きてきたのか。生きてきた条件と価値観について鋭敏になること。互いが深く理解し合うために。そして、人間そのものへと問うていく。・・・こうして現象学は《哲学ゲーム》をほんらいのかたちへと連れ戻したのだ。」 - 夢と現実とはどうちがう?
「現実とみなすための基準は〈首尾一貫性〉と〈他人の同意である〉」
(わたしたちが、心の中で現実であると感じとっている場合は、この二つの条件が満たされている場合である。夢を偏見、現実を、ほんとう、と読み替えてもいいし、応用問題は沢山あると思う。) - 「現実を生きてる感じ」はどこからくる?
「現実感(リアリティー)は、どこからくるのだろうか、人はなぜイキイキしていたり、イキイキできなくなったりするのだろう」
「希薄になった「生きている感じ」を取り戻すには、じぶんがそれまで生きてきた現実のストーリーとじぶんの欲望をていねいに検討しつつ、現実とじぶんを組み立て直すというやり方がある。しかし当時のぼく(著者の大学時代)には、そういう知恵はなかったなあ。」 - 人は何をもとめて生きているのか?
(近代哲学の総元締めである哲学者ヘーゲルは、人間の欲望の中心あるのは〈価値あるじぶんであろうとすること〉、人間の欲望の根本は他者からの承認、その人間の価値観は経験の積み重ねでつくられ、つくりかえられていき、感受性としてかたちとなっている、と言った・・・) - 自分のモノサシをどうやってつくるか?
「だれかが(恋人なり友人が)じぶんの存在を受け入れている、という感覚が得られてはじめて、人はじぶんの感受性を肯定できるようになるのだ。そして、感受性の肯定が出来てはじめて、その人はじぶんを検証しながら自覚的にじぶんのモノサシを育てていくことが出来るようになる。(他の人と一緒に育て合っていく)」
おわり
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