1 活動的生と人間の条件
この節の一言⇒人間が生きているときの根本活動には三つある
「vita active つまり<活動的生>とは、本書では、人間の三つの根本活動、すなわち<労働>、<制作>、<行為>、を総称する言葉として用いられる。この三つが根本活動だと言えるのは、それぞれに対応している条件が、人類がこの地上に生きる上での根本条件をなしているからである。」。人間や人間の集団が存在するその在り方を、それらの本性とか本質とかいうような、ある想定された真理を追求することによってではなく、人間の実存を支える条件を問うということによって理解していこうとする著者の基本思想が示されている。この発想の根底には、事物存在を人間と切り離さず人間にとっての存在として捉え直したハイデガーの実存哲学があるのだろう。
「労働という活動にとっての根本条件は生命それ自体である。」。人間の肉体は自然物を採取飲食することで維持される。そのために自然物を生産し加工して肉体に供給できるようにする人間の活動が<労働>である。<労働>によって生産された物は、自身の生命循環プロセスの一環として消費されるだけである。
「制作という活動にとっての根本条件は、世界性である。すなわち、人間的実存が対象性と客観性に差し向けられ依拠していることである」。人類が<労働>で生産した物を消費しながら命の再生を永遠に繰り返すことができたとしも、人間は、その様な存続の仕方に甘んじることが出来ず、さまざまな物からなる人工的世界を生み出して、そこを故郷として生きることによってしか安住できない存在者なのだ。逆に言えば、人間は自然のうちでは故郷を失った生活を送らざるを得ない存在なのだ。人間のそのような有り様における活動を、上記のような<労働>とは区別した活動として、<制作>と名づけた。人間は<世界>を構成している事物を、己とは別の客観的存在(例えば今ここを生きるために必要な食物)としてだけではなく、それを対象化して己にとって持つ意味(例えば死後も残って子孫に役立つインフラ、あるいは歴史に残る建築物)を問う存在者である、と。
「行為に対応している根本条件は、<複数性>という厳然たる事実である。」。<行為>は、活動的生のうちで、事物の媒介によらずに人間同士の間で直に演じられる唯一の活動である。<複数性>は多数の人間がこの世界に住んでいるという事実から導かれるもので、フッサールの言う“間主観性”が織り込まれているように見える。<複数性>は他の活動と違って、<行為>という人間活動の必要条件であるだけではなく十分条件であり、従って際立って政治的なものと関連している。しかもアーレントにおいては、個々の人間は他のどの人間とも同じではないという感度が貫かれている。「行為には、なんらかの複数性が必要なのであり、しかもその複数性においては、なるほど誰もが同じ人間なのだが、それでいて誰一人として、過去、現在、将来における他のどの人間とも同じではない、という奇妙だが注目すべきあり方においてそうなのである。」
「以上の三つの根本活動と、それらに対応する条件ははどれも、さらに、人間の生の最も一般的な被制約性に根ざしている。」。それは可死性と出生性である。可死性について言えば、労働は、個体だけではなく種の命をも保証し、制作が作り出す人工的世界は死すべき人間にとってのはかない生存に一定の存続や持続を与え、行為は、それが政治的共同体を創設し維持することに役立つ限りにおいて、世代間の連続性のための、ひいては歴史の条件をつくり出す。出生性について言えば、行為はとりわけ密接に繋がっている。なぜなら、生まれてくる子どもには、「なんらかの新しい始まりを自ら為す、すなわち行為する、という能力が備わっているから」である。
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