ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)
「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)。
序論
序論においては、本書のテーマ、背景、論の進め方、取り扱い範囲、歴史的射程などが示される。また、それらを支えている著者の思想・哲学も垣間見えている。
「人間の<思考>は科学的発見や技術的発展の後塵を拝するに過ぎないといった思い込みは、捨てざるを得なくなる。」。著者は、第二次世界大戦などの現代世界の経験を踏まえ、哲学の出発点は人間にとってのリアルな現実であるということを根底において、<思考>は知識やそれに基づく威力に先行すると考えている。「しかも、誰もが抱く思考や概念がそうなのである。」
「この啓蒙の理念は、最終的には大地からの人類の解放独立に行き着くのであろうか。そういう大地とは、われわれの知る限り、生けとし生ける者の母であるというのに。」。近代西欧啓蒙思想は人間にとっては主なる父である神からの離反を意味し、科学的思考と経験によって強大な力を獲得した現代科学・技術はさまざまな物や工作物を作り出し、人間にとって住みやすい<世界>や、自らを生み出すことも滅亡させることすらも可能にする力まで獲得してきた。しかし、それらは近代の「世界疎外」を生み、さまざまな疑問、憂慮、問題をも生み出している。本書は、それらの疑問、憂慮、問題に直接答えるものではない。それらは多数の人々に懸かる政治の任務である。
「わたしが心がけようと思うのは、活動しているときわれわれは何をしているか、をじっくり考えることであって、それ以上ではない」。著者は、人間とはかくかくしかじかのものである、という説明をしようとしているのではない。そうではなくて、人間が人間であることの条件を問うことあり、そうすることによって人間が人間であることの意味と価値を問おうとしている。
「活動しているときわれわれは何をしているか」の何は、<労働>、<制作>、<行為>という三つであり、それぞれの三つの章において考察される。但し最も純粋な活動である<思考>は含まれない。というのはこの三つの区分は万人の経験地平に存していることと、後で挙げられる理由による。最終章では、近代においてこの三種類の活動がいかなる相互関係を演じてきたかという歴史的考察を行う。<活動的生>と<観想的生>の関係についての歴史的問題地平はつねに考慮されている。
本書の歴史的射程は近代の終わりまでである。ここで、近代の終わりは19世紀末を指し、現代の始まりは最初の原子爆弾の炸裂(1945年)を指す。その理由は恐らく、17世紀から始まった科学技術の発展が人間の活動における一つの重大な歴史的画期であるという、またその究極においてつくり出された原子爆弾は単にその延長線にあるだけではなく、極めて政治的画期となったという著者の認識によるものだろう。歴史的分析が目指すのは、近代における世界疎外の根源に溯り追跡することである。そうすることで著者独特の概念として提示した<社会>という近代の現象を理解できるようになり、人類にとってある新しい時代が始まったこの瞬間におけるヨーロッパ人の置かれた状況を理解できるだろう。
★序論に覗えるアーレントの思想・哲学の断片。
・人間は近代以降、啓蒙思想と自然科学のお陰で自然の束縛から逃れようと欲望するようになり実際にそうなってきたが、そのことは人間が人間では無くなる可能性を孕んでいる
・現代の科学的知見と巨大な技術力を、どの方向で行使したいと願うのかだけが問題となり得る、そしてそれは第一級の政治問題だ
・自然科学的真理は、言語やそれを用いた思考によってリアルに描き出すことは出来ないような真理であって、心身を持って生きている人間に関する真理ではない(そこを誤るのは「科学の基礎付けの危機」の現れである)
・地表に生きる人類として、自然に束縛されていながら自然から逃れられると考えているような人間が、自分が行っていることを「理解」することは出来ない
・知ることと考えることが何も関係が無くなり、前者によってつくり出すことが出来るものが後者によって理解できるものより優れているとしたなら、われわれは自身の認識能力の奴隷に成り下がるであろう
・科学の基礎づけの危機には深刻な政治的側面がある。というのも、人間が政治の能力を付与された存在であるのは、ひとえに、人間が言語の能力を付与された存在だからだ
・科学の活動している場は、言語を失った数学の世界であり言語を駆使しようのない世界だから、人間事象に係わってくる問題では科学者としての科学者を信用するわけにはいかない
・人間は<複数形>において存在する。言い換えると、この世界に生き、活動し、行為する限り、その限りにおいて意味を持ちうるのは、われわれがその話題について互いに語り合うことの出来る、或いは自己自身と語り合うことが出来る、そういう事柄だけだ
・近代は、ジョン・ロック以来17世紀に労働価値説を賛美し始め、20世紀初頭に社会全体を労働社会へと変貌させることで終わった
・科学技術によって労働社会の束縛から解放されることになる労働社会においては、太古以来の夢である労働からの解放という、この甲斐ある社会の意味を殆ど知ることができない
・労働社会が平等主義的であるのは、平等が労働に適合したような生活形式だからであり、そのような平等社会の内には、知的労働者という言葉が象徴的であるように、人間の多様な能力を再び回復させてくれるような、政治的又は知的なタイプの貴族階級はいない
・労働社会の例外は詩人と思想家のみであり、おかげで彼らは社会の外部に立つほかなく、労働社会の前途を考えるとこれは由々しき事態だ
・<活動的生>に対して<観照的生>があって、この間には歴史を通じて関係があった
・人間の実存に課されている制約に対応する人間の基本的能力は、時代が変遷してもそう変わらない
・世界疎外には、大地から宇宙への逃避行、世界から自己意識への逃避行、という二つの面がある
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