ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)
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第一章 人間の被制約性
3 永遠対不死
この節の一言⇒人類ではなく個々人の生を問題にしたい
この節の一言⇒人類ではなく個々人の生を問題にしたい
この節では永遠と不死の違いが述べられる。ソクラテス学派以来、思考が行為から解放され自立し、原理的に観照は活動よりもより高い地位にあり、この二つは対立するもので、人間の全く違う二つの中心的関心が対応している、と考えられてきた。そのことを理解するためには、不死と永遠という二つの原理の相違を考えてみるのが良いからである。
なぜ、このことをここで問題にしているのかといえば、活動的生活と政治生活の源泉は「不死への努力」の方であったのに、結局現代に至っても、そのことを忘却の彼方から救い出せていないから、と著者が考えているからだろう。
ギリシャ人にとっては、不死は自然およびオリンポスの神々に与えられていたものであり、不死である宇宙で人間は唯一死すべきものであった。また、ギリシャ人は永遠なる唯一神の支配下にあるのではなく、神々の不死の生命と向かい合っていると理解していた。同時代のペルシャやユダヤではそうではなかった。
可死性が人間存在の印となるものは、他の生命(動物とか)のように不死を生殖によって保証する種ではないからである。人間は不死ではないがゆえに、生きている間にどれほどの偉大さを可能性として持てるのか、仕事、功業、言葉を生み出して遺すことができるのか、を問題とするのであり、そのことで自分たちにとっての不死を獲得することができたのである。この考えはヘラクレイトスの時代までは適用されていた。
ソクラテス以降は上記の考えは殆ど消え失せた。厳密に形而上学的な思考の中心に永遠なるものを置いたのはソクラテスかプラトンであった。ソクラテスは偉大な思索者の中で唯一自分の思想を書き残さなかった。なぜなら、ソクラテス自身にとって永遠なるものがいかに思考の中心であろうとも、書き残すという作業を始めた瞬間にその永遠なるものを放棄することになると考えたからである。つまり、書き残した本人の第一義の関心事は自分が考えた痕跡を後世に残すことであって、それが不死性に通じることつまり活動的生を選ぶことであったとしても、永遠へとは至らない、と考えていたからであろう。さらに驚くのは、永遠と不死の間の真の対立を発見し、哲学者の生活とポリスの生活との、あるいは観照的生活とポリス的生活との、調停不可能な闘争を発見したのはプラトンであって、ソクラテスではなかったということである。ソクラテスは後世のように不死と永遠を対立的に捉えておらず、かつ永遠を思考の中心に置きつつも不死へと通じる行為という活動的生を選択した。
永遠なるものに対する哲学者の経験はただ人間事象の外部にのみ、そして人間の複数性の外部にのみ起こりうることである。このことは、プラトンの『国家』における洞窟の比喩から知られる。哲学者はみんなと離れて一人で洞窟を去り世界からも複数性からも去る。永遠なるものの経験は一種の死である。永遠なるものの経験は不死なるものの経験とは違って、いかなる活動力とも関係できず、またそれに転化もできないということにある。
観照(theoria)という言葉は、永遠なるものの経験に与えられた言葉である。この経験はそれまでの経験である不死の経験とは全然違っていた。まず、不死の筈であったポリスが崩壊した(アテネ崩壊)。ロー帝国が没落して、死すべきものの手になる仕事はどれ一つとして不死ではないことが証明され、続いてキリスト教の福音が永遠なる個体の生命を説いて、反対に人間は死すべき定めではあるが人間によって作られた世界の方は不死であり得る、との信仰に支えられていた古代宗教は終焉を迎えた。
「つまり、近代が勃興して、それ以前の秩序、とりわけ行為と観想との伝統的な上下関係を、力ずくで転倒したときでも、かって活動的生および政治一般の源泉にして核心であったはずの不死を求める努力を、忘却のなかから掘り起こすことにすら成功しなかったということ、これである。」
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