自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2021年8月14日土曜日

8月14日(土) プラトン『ラケス』

 
カラー
  昨年の1月にハワイ島で波の音を聞きながら楽しく読んだ、西研さんの『哲学は対話する』を大胆にも箇条書き風に纏めてみようと思って失敗した。それから一年後にリベンジを目論んでダイジェストを作成中。ということで、第四章「~とは何か」の問い『ラケス』まで来たところ。で、今一度原典を読んでみた(読んだのは岩波の『プラトン全集7』に収録されいたもの)。

  本書の主題は「徳」の一部である「勇気」とは何か、についてのソクラテス(プラトン)の考えが書かれている作品。でも勿論例によって、はっきっりと「勇気とはコレです」とは書かれてはいなが、何か「よい」と呼ばれるものは「生における価値」を知っていてこそのもので、それが「徳」のひとつである「勇気」にとって一番大事なものだと言うことはよく伝わってくる。『哲学は対話する』での西さん言い方の理解が深まりました。 

  さらに、色々な箇所においてプラトンの初期対話篇に共通する考えが散りばめられ、また想起説風の説明が「多分分からないだろうが」といいながらなされていたり(『ラケス』ではホントに読んでもワカラン説明だが、『パイドロス』を読むとプラトンの考えのイメージがもう少し分かると思う)、市民は兵士として戦う(具体的にはカルタゴやスパルタとの戦争が日常手あった)ことが仕事であったとか、息子たちの出世を願う親心とか、当時のアテネ社会の有様が面白く描かれていたりして、プラトンの文才も本書でも堪能出来ます、短いし。

2021年8月11日水曜日

8月10日(火) デービッド・アトキンソン『日本企業の勝算』

東洋経済新報社Kindle版(2020/4/9アップロード)で読んでみた。

希望
 いつの間にか著者が管首相のブレーンとなっていて、有る意味ナルホドと。というわけで本書を読んでみようというわけでもない。2015年頃にアトキンソンさんの『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』という本を読んでみて、その生き方と経済社会を見る合理的な考え方が面白くて、記憶にあったことが背景にある。

 本書の趣旨と結論とその結論に至るロジックは極めて明快。趣旨は、先進国の中でも高齢化が加速する日本はこのままでは経済的衰退・敗退は必至なので、その立て直し方法を提示すること。結論は「人的資源×生産性向上×企業成長」を実現するしかなく、具体的には企業の規模を大きくすること。ロジックは簡単な経済学を普通に使用すること(=思い込みや個別事情に左右されず、データにもとづいて論理的に考える)。

 なにしろ著者はオックスフォードで日本学を修めた知日派+日本びいきで、卒業後いくつかの金融会社を経巡った後、日本の不良債権問題を指摘しバブル崩壊に警告を発し、しかも誰にも聞いてもらえずそれが的中したことで一時有名になったゴールドマンサックス日本駐在アナリストであり、それから暫くしてお金も貯まったことだしマネーゲームに愛想尽かして(これは私の推定)茶道かなんかに凝っていたら、国宝・重文なとを修理することを生業とする、伝統があって潰れそうな建築屋さんに頼まれて社長を請け負い、実に合理的だが実行はできないと皆が思っていた方法(年齢の高い腕利き職人の給料を減らして若い人に回した等々)を当事者ととことん話し合って納得ずくの上で実行し、見事立て直した人なのだ。今でもそこの社長さんやってる。

 人的資源の向上は、量と質の両方で、日本においては特に経営者に求められること。就職後においても高等教育でスキルアップしたり、企業数を減らして的確な経営者が経営する、等々だが、日本社会の諸事情はそうなってはいない。生産性向上は人口当たりの付加価値の向上だから、極単純化すれば一人当たりの収入(利益+給料)を上げることが根本的に大切なこととなる。ここは民間(特に経営者)の意識もさることながら、政策も大事。非正規雇用等々はその対極思想に基づいた政策。企業成長は、グローバル化した世界での企業競争で勝つことでしか達成出来ず、そのためには力が必要で、力とはお金と知識と情報とetcが必要で、結局規企業規模が大きくなければならない。これは世界で公表されている経済データを冷静かつ真面目に読めば分かることである。提言例⇒中小企業庁を企業育成庁とせよ(ひとかどの大人にならないと世界で生き抜けない、と)。

 高齢化先進国の日本は、その問題点を最初に解決しなければならないという点において先進国になることができる、と著者は確信しているらしい。そう励まされると、ワクワクした気分になってきた気がするかも。






2021年8月7日土曜日

8月7日(土) 斉藤幸平『人新世の資本主義』

 マルクス研究の世界的権威であるそうな「ドイッチャー記念賞」を、2018年に歴代最年少で斉藤幸平さんが受賞した作品が『大洪水の前に』(2019年、堀之内出版)。本書『人新世の資本主義』(2020年10月、集英社新書)はその後斉藤さんが未公表のマルクス史料(MEGA)などを研究して発見したマルクスの「脱成長論」と呼ぶべき論をもとに書き加えたもの。『大洪水の前に』はまだ読んでないので、これから読もうとは思っている。

ヨハネ・パウロ2世
若きマルクス経済学研究者による透明な視点は、マルクスと言えばマルクス主義というイデオロギー的に捉えられた先入観により曇らされきた部分に犯されず、フッサール風に言えば、そのイデオロギーをエポケー(先入験をカッコに入れて判断停止する)して捉え直すことも可能にしているのかもしれない。折しも、仲間と3年ほどかけて『資本論』全巻を再読してからそう年月が過ぎていないこともあって、著者の言うマルクスの「脱成長論」というものが、資本論後のマルクスがそれまでの論理の前提の多くの部分を否定しながら構築していった動機や理論の本質には素直に賛同してしまう。斉藤幸平さんの力作に感謝。

簡単に言えば、現代が直面している地球環境問題、あるいは資源・エネルギー問題、あるいは気候温暖化問題(より本質的には気候変動問題)の元凶は、資本主義に基づいた経済の仕組みにあるから、これを別の経済に、しかも短期間に移行させなければならず、この別の経済がどのようなものであるかをマルクスは資本論を土台にして「脱成長コミュニズム」として提示している、というものだ。この新時代のキーワードがいくつかあって、経済的には「脱成長」、社会的には「アソシエーション」や「コモン」、政治的には「コミュニズム」(これは古いイメージで捉えるとダメ)。マルクスが「脱成長」を唱えていたとはね。資本論は、資本主義が資源・労働・人間を収奪しながら経済成長を続けなければならないという本質をもつのでどんどん膨張していくが、やがて限度を迎え(資本は剰余価値を生み出せなくなる、という限度⇒「利潤率の傾向的低下法則」)滅びる、という経済理論を立てた。修正したり外部から収奪して滅びる時を延長しても原理は同じ。現代は「人新世」と呼ばれるような新たな地質学的時代区分相応しい時代(人間が出現してくる地質学的区分はわざわざ新生代第四期と名付けられているが、その第四期の最終段階を「人新世」と呼んで区分しようとしているらしい)を迎え、否応なしに、「脱成長」しないと滅びるから、はやりのエコ社会とか、SDGsとかやってる場合ではないと著者は言う。それらはマルクスに言わせれば「アヘン」だと。マルクスは資本論第一巻で本源的蓄積の前提に自然の収奪をおいてはいるが、それが資本主義生産体制崩壊の不可避の要因とはいっていない。現代がそこに来ていることを、実は資本論後にマルクスは予言していたと。

2021年8月5日木曜日

8月5日(木) 南方熊楠とはどんな人?

明治時代に粘菌の研究などで世界でも認められた天才ということは知っていたので、どんな人かと『南方熊楠-日本人の可能性の極限』(唐澤大輔著2015)を読んでみた。現代日本ではこのような人は生存出来ないかもしれないことは、世界にとっても不幸なのだろうな-。
快挙

 徳川幕府の最終年に比較的裕福な家に生まれ(1867年生)昭和の時代まで生きた(1941年没)この天才的研究者は、研究への没入状態は尋常ではなく、自分と自然との境界区分が曖昧であった。

 多国語を操り、古今東西の文献を写筆しつつ漁読し、粘菌や植物などを各地で蒐集し、米英を放浪し、研究拠点にしていた大英博物館から追放され、英国の著名な自然雑誌ネイチャーに夥しい投稿が掲載され、帰国後は那智の野生に棲み、かろうじて人間自体からの逸脱を避けつつ七十数年存在し続けた。

 自作の曼荼羅世界を考出し、民俗学では、バックグラウンドが対極にある柳田国男をして感嘆せしめるとともに必然的別離となり、生涯を在野で、大酒飲みでトラブルに事欠かずの人生を送った奇人。本人は地位も金も求めず、従ってそれらはなく、それらを持っている人が熊楠をこの世で生かし続けた。