自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2021年8月5日木曜日

8月5日(木) 南方熊楠とはどんな人?

明治時代に粘菌の研究などで世界でも認められた天才ということは知っていたので、どんな人かと『南方熊楠-日本人の可能性の極限』(唐澤大輔著2015)を読んでみた。現代日本ではこのような人は生存出来ないかもしれないことは、世界にとっても不幸なのだろうな-。
快挙

 徳川幕府の最終年に比較的裕福な家に生まれ(1867年生)昭和の時代まで生きた(1941年没)この天才的研究者は、研究への没入状態は尋常ではなく、自分と自然との境界区分が曖昧であった。

 多国語を操り、古今東西の文献を写筆しつつ漁読し、粘菌や植物などを各地で蒐集し、米英を放浪し、研究拠点にしていた大英博物館から追放され、英国の著名な自然雑誌ネイチャーに夥しい投稿が掲載され、帰国後は那智の野生に棲み、かろうじて人間自体からの逸脱を避けつつ七十数年存在し続けた。

 自作の曼荼羅世界を考出し、民俗学では、バックグラウンドが対極にある柳田国男をして感嘆せしめるとともに必然的別離となり、生涯を在野で、大酒飲みでトラブルに事欠かずの人生を送った奇人。本人は地位も金も求めず、従ってそれらはなく、それらを持っている人が熊楠をこの世で生かし続けた。

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