自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年11月23日土曜日

11月23日(土) 岩波講座 日本歴史 現代史Ⅰ 「地租改正と地域社会」

岩波講座 日本歴史 現代史Ⅰ の読書メモを再開した。今回は明治時代の「地租改正と地域社会」についてです。内容はココ⇒「爺~じの日本史メモ」をクリックすると見ることが出来る別のブログを見てね。

東シナ海の夕焼け
経済と政治は切り離せないから、国家にとって税の徴収は最も大切な政策であるのに、明治維新のそれについては殆ど無知(私が)であることに改めて気がついた。経済の基盤が土地にあるのは、当時の主力産業が農業をはじめとする一次産業なのだから尚更であることはわかるが、その土地から近代国家として、政府が村単位の請負ではなくて、個人単位として、個人の土地所有を前提とし税を徴収すると言うことは、社会の仕組みの根幹を変えることなのであった。つまり近代国家という理念だけの机上の空論では実施不可能であった。

2019年10月7日月曜日

10月8日(火) 『道徳感情論』アダム・スミス 1759年 通読メモ

芳純(良い香り)
おとといスミスの『国富論』の日記を書いたので、スミスと言えばこちらはどうだろうと調べたら、2011年頃に、仲間の読書会で取り上げられ時に通読してみたときのメモ、といっても、各篇・章ごとに印象的部分を一言二言記している記録があったので掲載した。

 本書は、章じたいの項目名というのか説明が長いので、これだけ羅列するだけでも面白い。岩波文庫上下2冊(水田洋訳)。( )内は私の補足


第一部    行為の適宜性について
第一篇    同感について
・人間の本性にはいくつかの原理がある。哀れみ、同情に対する情動ではその一つである
・われわれの想像力は諸感覚印象によるほかはなく、それによって観念を形成する(デヴィッド・ヒュームと同じ)。
・想像力が同胞感情の根拠である
・想像力による幻想によりへの恐怖が生じる

第二篇    われわれが他の人びとの諸情念と諸意向を、彼らの諸目的にとって適合的なものとして、あるいは適合的でないものとして、是認または否認するさいの、感情について(確かに題目が長いけど、スミスが問題にしているところが分かって面白い)
第一章    相互的同感の快楽について
・同胞感情を観察すること以上に喜ばしいものはない。なぜなら援助を受けられる確信を与えられるから
・愛は快適な、憤慨は不快な、情念である。愛顧より憤慨への同感のほうが望まれる

第二章    われわれが他の人びとの諸意向の適宜性または不適宜性を、それらがわれわれ自身の諸意向と協和しているかいないかによって、判断するやりかたについて
・その判断は同感できるか否かである
行為と悪徳は、究極的には心の感情または意向に依存するが、これらは二方面から考察することができる。原因つまり諸動機目的つまり効果との関連においてである

第三章    同じ主題のつづき
・他人の諸感情の適宜性についての判定基準は二つある。一つは科学や趣味の世界の基準で、もう一つは同胞感情を持っている仲間世界での基準である
・仲間内だけではなく他人を含めて、是認・協和は可能である
社会交際は、平静さを取り戻すための最も強力な手段である

第四章    愛すべき、および尊敬すべき諸について
すべき諸徳=率直謙遜寛大人間愛→相手の諸感情に入りこむ努力
尊敬すべき諸徳=偉大畏怖すべき、自己統御名誉行動の適宜性に従属できる徳→情念規制の徳
・諸徳は普通でない程度が要求される

第三篇    適宜性と両立しうる、さまざまな情念程度について
序論
・情念の適宜性には相手が了解出来る程度で→大体は高過ぎ、例えば悲嘆、憤慨。低過ぎは愚鈍、無気力

第一章    肉体に起源をもつ諸情念について
・肉体に起源をもつ諸情念が強いと不快→不快感の本当の原因は、そこに入りこめないから
・肉体的苦痛についてはかなり同感を得やすい
想像に起源をもつ諸情念は、肉体的なものよりも同感を得やすい。→動揺不安観念によってひきおこされる。
・肉体の苦痛に耐えうるのは、それに対する同感がわずかであることに由来する。→(肉体を自己から切り離しうること、それによって他者から認められることを知っている)

第二章    想像力の特定の傾向または慣習に起源をもつ諸情念について
・慣習や個別事情から出てくる想像力に基づいた諸情念は、自然に基づくようなもので同感を得にくい。→の情念は他人にはどうでも良いばかばかしいもの。
・われわれの関心をひくのは、他の情念、即ち希望不安、困苦を生み出す状況としての情念、である。

第三章    非社会的な諸情念について
憎悪憤慨およびそれらの変容のすべてである。第三者がどちらに同感するか?
憎悪怒りは善良な精神の幸福にとって最大のである。落ち着きと平静さは幸福にとって極めて必要であって、それらは感謝愛情という反対の諸概念によって最も促進される
・憎悪が抑制されると寛容で高貴でさえあると認められるであろう

第四章    社会的な諸情念について
寛容親切同情、相互の友情尊敬、社会的な仁愛的な意向、の態度、顔つきは利害関係抜きに人を喜ばせる。
侵害の残虐性はどこから生まれるか?
嫉妬は一つの根拠だが大した問題ではない。憎悪憤慨への激しい情念は、普遍的恐怖嫌悪の対象であって、市民社会から追放されるべきものである。

第五章    利己的な諸情念について
・社会的と非社会的の中間に利己的な諸概念がある
・成り上がりにたいする嫉妬。成り上がった人のもつべき配慮、例えば丁寧さや謙虚や簡素
幸福は愛されていることに由来するが、幸運にはあまり由来しない。だから、運命による大きな成り上がりに対する歓喜には同感は得られず、小さな歓喜は容易に同感される

第四篇    行為の適宜性に関する人類の判断にたいして、繁栄と逆境が与える影響について、および、まえの状態にあるほうが、あとの状態にあるよりも、かれらの明確な是認がえやすいのはなぜか
第一章    悲哀にたいするわれわれの同感は、一般に、歓喜にたいするわれわれの同感よりも、いきいきとした感動であるのに、主要な当事者によって感じられるもののはげしさには、はるかにおよばないのがふつうであること
悲哀への同感歓喜にたいする同感より普遍的である
嫉妬がなければ、歓喜への同感の方が悲哀への同感よりもはるかに強く、同胞感情も当事者のそれにずっと近くなる。なぜなら、健康で負債が無く良心に疚しさがない幸福な状態に付け加えうるものは少ないが、そこから奪われで悲惨となる迄の距離は無限大であるから、同感の程度において第三者当事者にはるかに及ばないから
・なぜ笑うことより泣くことを恥じなければならないか。

第二章    野心の起源について、および諸身分の区別について
・くらべられぬほど悔しいのは、貧困を公共にさらすことである。
貪欲野心権力優越の追求の目的は何か?自然の諸要求を満たすためではない。注目され、同感と行為によって明確な是認をうることである。
・われわれの関心は安逸や喜びではなく虚栄であり、虚栄はわれわれの信念に基づく。
地位ある人びとの状態にたいして、われわれは特殊な同感をもつ。例えばたちの悲運は恋人たちの悲運に似ている。想像力に基づく演劇への同感
・富裕な人や有力な人の情念に付いていくこと。国王の処刑理性哲学の学説であり、自然の学説ではない。ルイ14世は偉大な王の範例であり、彼の前では、知識、勤勉、武勇、慈恵は、ふるえ、赤面し、あらゆる威厳を失った。
身分の低い人びとは、自分の肉体、精神の労働以外に資金をもたないから、それらを磨くしかない

第三章    ストア哲学について
[付録一 六版 第一部第三篇第三章 富裕な人びと、地位ある人びとに感嘆し、貧乏で卑しい状態にある人びとを軽蔑または無視するという、この性向によってひきおこされる、われわれの道徳諸感情の腐敗について]<省略>

第二部    値うち欠陥について、あるいは報償処罰の対象について
第一篇    値うちと欠陥の感覚について
序論
・人類の諸行為を為す諸資質には、適宜性の他に値うちがある。値うちには報酬が値する(反対は処罰)。
・諸行為の値うちについての感覚の本質を、ここでは考察する。

第一章    感謝の正当な対象であるように見えるものは、すべて報償にあたいするように見えること、また同様にして、憤慨の正当な対象であるように見えるものは、すべて処罰にあたいするように見えること
<省略>

第二章    感謝と憤慨の正当な諸対象について
<省略>

第三章    恩恵を授与する人物の行動について、明確な是認がないばあいは、それをうけるものの感謝にたいする同感は、ほとんど存在しないということ、そして、反対に、危害を与える人物の諸動機について、明確な否認がないばあいは、それを受けるものの憤慨にたいして、いかなる種類の同感も存在しないということ
意識的な恩恵の授与でない限り、それに対する感謝を感じ取ることはできないし、意識的な否認なくば、加害者は被害者の憤慨を感じ取ることは出来ない。

第四章    先行諸章の要約
<省略>

第五章    値うちと欠陥についての感覚の分析
<省略>

第二篇    正義慈恵について
第一章    それらふたつの徳の比較
慈恵無償=自由であり、原理的に力づくでは奪えないものである。
憤慨は防衛のためだけに自然からあたえられているもので、正義を保護し、罪を犯さぬ安全保障である。
・慈恵的な諸徳ではない徳がある。その徳は正義である。
正義を守るには、われわれ自身の意思の自由が制限され、力ずくが許容される。
正義の侵犯は憤慨(処罰)の対象となる。

第二章    正義の感覚について、悔恨について、および値うちの意識について
<省略>

第三章    自然のこの構造効用について
自然は、正義を守るための性質、意識を人間にあたえた。例えば侵犯が処罰に値すると意識でき、処罰への恐怖をもつ
・人は生まれつき同感的である。
・スミスの自然認識→宇宙の適合性(整合的)。生命体の作用原因と目的原因の存在。諸物体の作用原因と目的原因の存在。精神のはたらきは物体のはたらきと違ってこの二つの原因を混同すること。

第三篇    諸行為の値うちまたは欠陥にかんして、人類の諸感情に偶然性があたえる影響について
序論
第一章    偶然性のこの影響の諸原因について
<省略>

第二章    偶然性のこの影響の範囲について
<省略>

第三章    諸感情のこの不規則性の究極原因について
・自然のあらゆる部分は、創造者であるの配慮の証明であり、人間の弱さと愚かさの中にさえ、神の智恵善性をみることが出来る。

第三部    われわれ自身の諸感情行動に関する、われわれの判断の基礎について、および義務感覚について
第一篇    称賛または非難される値うちがあるという意識について
<省略>

第二篇    われわれ自身の判断は、どのようなやり方で他の人びとの判断であるべきものに依拠するか、および、一般的諸規則の起源について
<省略>

第三篇    良俗の一般的諸規則の影響と権威について、および、それらは最高存在の諸法とみなされるのが正しいということについて
々があたえた良俗は、自然に叶うものである

第四篇    どんなばあいに、義務の感覚がわれわれの行動の唯一の原理でなければならないか、また、どんなばあいに、それが他の諸動機と協働しなければならないか
感謝慈善公共精神寛容正義、これらの諸義務を遂行する行為の唯一の原理と動機は、がわれわれに命令したといいうことである
・人間が間違った義務感覚に従ってしまうのは、彼の行動が彼の弱さによるのであって、原理の結果ではないことを理解すれば、不快には成らないが、到底是認することも出来ない

[付録二 六版第三部への追加]<省略>
第二章    称賛への愛好について、称賛にあたいすることへの愛好について、また、非難への恐怖について、非難にあたいすることへの恐怖について
第三章    良心の影響と権威について[追加分]

第四部    明確な是認感情にたいする効用効果について
第一篇    効用があるという外観が、技術のすべての作品にあたえる美しさについて、そしてこの種の美しさの広範な影響について
効用は、の主要な源泉の一つである。
・意図された目的を実現するのに適していることは、効用である。
効用喜びをあたえ、その喜びの原因は効用快楽便宜をもたらすからである(ヒューム礼賛)。
の対象が永続的となるのは、同感による。効用が喜びをあたえるのはその外観による。
効用以上の値うちをもつことがある。地位快楽は、哲学的見方からすればつまらぬものであろうとも、われわれは自然に、何か偉大で美しく高貴なものとして、想像力に強い印象をもつ。この自然の欺瞞は科学と技術と生産と土壌の改良と大洋の資源化と荒れた森林の平原化と贅沢品の生産およびそれの分け前としての生活必需品の――――。

第二篇    効用があるという外観が、人びとの生活と行動にあたえる美しさについて、そしてこの美しさの知覚が、どれだけ、明確な是認の本源的な諸原理のひとつとみなされるかについて
・われわれは、個別事情があたえられたときだけ感受作用是認・否認知覚同感感謝憤慨徳・悪徳判断、を持つことが出来る。
効用が是認の第一の理由ではない
・明確な是認の感情には、効用の知覚とは区別された適宜性の感覚をつねに含む
有用な(効用)諸資質は第一に理性理解力、第二に自己規制
人間愛正義寛容公共精神は、他の人びとにとって有用な諸資質である
人間愛女性の徳で、寛容男性の徳、――――。

第五部    明確な道徳的是認および否認の諸感情にたいする、慣習流行の影響について
第一篇    美しさみにくさについてのわれわれの諸見解にたいする、慣習と流行の影響について
<省略>

第二篇    道徳的諸感情にたいする、慣習流行の影響について
<省略>

[付録一 六版第六部]<省略>
第六部    徳の性格について
序論
第一篇    その人自身の幸福に作用するかぎりでの、個人の性格について、あるいは、真慮について
第二篇    他の人びとの幸福に作用しうるかぎりでの、個人の性格について
序論
第一章    諸個人が自然によって、われわれ自身の配慮と注意にゆだねられているその順序について
第二章    諸社会が自然によって、われわれの慈恵にゆだねられる、その順序について
第三章    普遍的仁愛について
第三篇    自己規制について
第六部の結論

第六部    道徳哲学の諸体系について
第一篇    道徳的諸感情の理論において、検討されるべき諸問題について
良俗の諸原理を考えるときに二つの問題がある。一つはの所在(性格、気質の調子、行動の色合い)、一つはこの性格をもたらす精神の能力とは何か。

第二篇    の本性にかんしてこれまであたえられてきた、さまざまな説明について
序論
・これまでのの説明は三つある。徳は適宜性にある、徳は真慮にある、徳は仁愛にある、の三つ
・諸意向の大きな区分は、利己的仁愛的である。

第一章    適宜性にあるとする諸体系について
・プラトン、アリストテレス、ゼノン。プラトンは判断する能力を理性と予備全体の統治(真偽だけでなく欲望と意向)原理資格を与えた。

第二章    真慮にあるとする諸体系
・エピクロス、自然的欲求の一次的対象は、肉体的な快楽と苦痛(プラトンは知や幸福などイデアもそう)。

第三章    仁愛にあるとする諸体系について
・アウグストゥス、後記プラトン主義者、キリスト教

第四章    放縦な諸体系について
・その他に、悪徳と徳との区別をしない徳の体系がある。スミスはそれらを否認する。

第三篇    明確な是認の原理に関して形成されてきた、さまざまな体系について
序論
・是認の原理は三つあり、それぞれ異なった源泉、即ち自愛心理性感情をもつ。しかし、この原理の考察は哲学的好奇心の対象ではあっても、実際においては重要性を持たない。

第一章    明確な是認の原理を自愛心から引き出す諸体系について
・ホッブズなどの体系。

第二章    理性を明確な是認の原理とする諸体系について
・ホッブズに対抗して、国家権力を超える是認原理を理性に求める体系。徳が理性との一致にあるということは、ある部分では真実だが、つまり経験からの帰納判断する力が理性だから。だが、正邪についての最初の諸知覚は理性の対象ではなく、感覚気分の対象である

第三章    感情を明確な是認の原理とする諸体系について
・この体系は二つに分かれる

第四篇    さまざまな著者たちが、良俗の実際的な諸規則を、とりあつかってきたそのやり方について
<省略>

[付録二 諸言語の起源にかんする論文]
諸言語の最初の形成および本源的ならびに複合的諸言語の特質のちがいについての諸考察
<省略>

2019年10月6日日曜日

10月6日(日) 『諸国民の富』アダム・スミス 1776年 通読概要

ピース
私の書棚のリストには2500冊ほどが記載されていて、目を通したのはそのうちの1700冊くらいと記録されている。このブログを書き始めたのは2017年10月からだが、日記というにはほど遠く、月に数回しか書いていない。そこで、昔読んだ本の内で感想とか読後のメモが残っているものを思い出しながら掲載してみることにした。

 アダム・スミスの『諸国民の富』は、大内兵衛先生の訳で岩波文庫5冊に収録されている本の題名で一般に『国富論』と呼ばれている経済学の古典。

 これを通読したのは2001年9月と記録にあるのだが、実はあまり記憶にないのだが、感想じみた文章が残っている。つまり当時は本書を読みたいという欲望からではなく、ただ教養として目を通さなければ恥ずかしいという気分で通読したのだろうが、それでも何か感じるところがあったのだろう。ここまでは、これからもこの読書日記の常套文句になるであろう言い回し。

 スミスは、この著作以外の原稿は全て破棄することを友人に遺言し、構想から27年後に出版したとのこと。
第一編(労働の生産諸力における改善の諸原因について、また、その生産物が人民のさまざまの階級のあいだに自然に分配される秩序について)
 経済学の基本的概念を理解出来る。先ず、経済的価値の源泉は労働にあること、生産力の源泉は分業にあることを示し、貨幣の意味、価格の意味、利潤の意味、地代の意味、賃金の意味などを説明している。
第二編(資材の性質、貯蓄および用途について)
 経済学の基本的概念を更に追加して理解出来る。資本の意味と価値、利息の意味、資本が動員される法則
第三編(さまざまの国民における富裕の進歩の差異について)
 都市の商業と農村の生産活動の関係、富裕の意味、それらの歴史的考察
第四編(経済学の諸体系について)
 自由な経済活動が最大の富を生むという自由主義経済理論の原点が示されている。国家による経済への干渉は弊害のみをもたらす
第五編(主権者または国家の収入について)
 省略

2019年10月の追記:現代は当時とは違うから、例えば自由な経済活動を放任すれば格差社会を生むし、さりとて共産主義は人間の自由を奪ってしまったのも史実になっているし、しかし、スミスの考えたことから今でも生かせる部分をくみ取れるという、そのこと自体に価値があるのだ。


2019年9月21日土曜日

9月20日(金) 『ケインズ』伊東光晴著 岩波新書 ~序説まで

ピエール・ドゥ・ロンサール
”新しい経済学“の誕生、が本書の副題。この新しい経済学は『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)、略称「一般理論」として広く知られている。本書の要約は別ブログ、爺~じの「本の要約・メモ」に掲載する予定だが、「はしがき」と「序説」に端的に示されていたケインズ経済学の意義について簡単に纏めてみた。( )は私の補い「 」は本文引用。

はしがき
*経済学の歴史には大きな曲がり角がいくつかある。アダム・スミス(1723~1790年。経済学の父、『国富論』1776年)、リカード経済学の成立(1772~1823年。近代経済学創始者、比較優位理論)、マルクス経済学の出現(1818~1883年。『資本論第1巻』1867年)、1870年代の限界革命(生産の立場に立つ労働の価値「労働価値説」ではなく、需要の立場、換言すれば個々人の欲望に基づいた経済学「限界効用理論」。これにより経済学の数学化が進んだ)、そして一番新しい曲がり角が1930年代にケインズによって拓かれた新しい経済学の成立(資本主義社会変革の可能性を拓いた『一般理論』)
*長い間、経済学の正流は、自由競争さえあるならば経済社会は調和ある状態を続ける、ということを論理的に明らかにすることであった。しかし19世紀の後半以後、自由競争が現実のものとなると、それ(古典派経済学)はなにもしないことであり、現実の説明をするだけのものに過ぎなくなった
*新しい経済学は、それまでの経済学の予定調和観の誤りを経済分析の武器を通して指摘し、国家の政策無くしては失業問題の解決も、不景気の克服も不可能であることを論証した。それは政治を経済という基礎から批判するものであり、政治経済学の復活であった
*第一線で活躍している政治家も実業家も、実は過去の経済理論の奴隷である、という諺があるが、ケインズ経済学の登場も古い政治家や実業家の通念とは摩擦を引き起こした。しかし、新しい経済学が古い通念に取って代わるにつれて、現実の経済社会も、同じ資本主義でありながら大きな変化を見せ始めた
*私(著者)は、ケインズ経済学の生誕の背景である1920年代から30年代にかけてのイギリス資本主義に目を向け、この危機(1929年は世界恐慌)に対処する伝統的経済学の政策と、ケインズの政策との対立を、ケインズ自身に内在して描いていこうと努めた
*ケインズは、イギリスにとって真理であり叡智であったものを、資本主義国どこにでも当てはまる真理であり叡智であるものに高めたといわれている
*本書の特徴の一つ目は、ケインズは植民地帝国主義国家としての老大国イギリス特有の三つの階級の利害構想を元に新しい経済理論と政策を作ったのだが(三つの階級については後述)、この点について、ケインズ理論と伝統的理論の対立が、海外投資を中心とする資本と国内産業に関係する資本の利害の抗争にあるという視点から意味づけた部分にある。著者が杉本栄一教授から与えられて研究テーマの一つとのこと
*本書の特徴の二つ目は、イギリス経済思想の視点から見れば、ケインズ理論はそれまでの経済学を支配してきたベンタム主義的思想(⇒イギリスの伝統的考え方である功利主義的な思想で、人々の幸福は測定・計算が可能とした。「最大多数の最大幸福」という言葉が有名だが、この言葉だけでは意味不明)の否定だという点を強調したところにある(⇒人間の期待・行動・幸福・利害は計測・計算だけでは理解不能なのだから、経済学にとってより重要なのは人間の内的洞察の方である、というような意味だろう)。宮崎義一氏から多くを学んだとのこと
*本書の特徴の三つ目は、新しい資本主義をつくりだす武器としてのケインズ理論という視角を強調したところ(例えば乗数理論⇒後述)。都留重人先生の影響が大きいとのこと

序説
*ケインズは、20世紀以来「衰えていくイギリス社会と、第一次世界大戦以来揺るぎだした資本主義経済とともに歩み、その変質のための処方箋を書き、しかもその処方箋が資本主義そのものの変化を可能にしたという意味で、一人の偉大な”経済”学者であった」
*ケインズは、現実をいろいろの意味で変えた。例えば下記
 ・自由放任主義を批判し、公共投資や景気振興策など経済政策の重要性を説いた
 ・貨幣制度を変えることに努力し、金本位制から離れて管理通貨への移行に積極的だった
 ・資本主義が既に変貌していることを認識したケインズの政策の正しさが、後に立証されている。例えば、景気を自動的に調節するメカニズムの制度化によって、第二次世界大戦後は第一次世界大戦後とは違って大きな不況に襲われていない(後のリーマンショックで顕在化した金融資本主義の台頭という新局面に対処可能な経済学は未だ出現していないように思われるが、少なくともいわゆる新自由主義ではなさそうだ)
・(ケインズの理論が現実を変える力を持つのは)「他の近代経済学者、シュンペーター、ヒックス、ワルラスのような書斎だけのものではないのである。」からである
・ケインズの社会的影響は、経済学者だけではなく政治家や実業家を変え、多数の追従者を生んだ
*ケインズ理論は生まれるべくして生まれた理由があるのだろうことは、同時代のいろいろな経済学者も別々に同じような考えに達していることから、明らかであろう
*ケインズの多様な肩書きは多方面での活躍及び特異な人間性を暗示している。下記参照
 ・ケンブリッジ大学キングス・カレッジの教師兼会計官
 ・29歳で、イギリスを代表する経済学雑誌「エコノミック・ジャーナル」の編集者
 ・第一次大戦後のパリ平和会議大蔵省主席代表
 ・大蔵大臣顧問
 ・国民相互保険会社社長
 ・三つの投資会社の経営者
 ・「ネーション」後に「ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション」誌の社長
 ・イギリス貨幣制度を動かしたマクミラン委員会の委員
 ・王立インド通貨委員会の委員
 ・第二次大戦後の世界金融のあり方を決めたブレトン・ウッズ協定のイギリス代表とそれに基づく国際通貨基金と国際復興開発銀行の理事
 ・二十世紀文芸運動の一つであったブルームズベリー・グループの一員
 ・国立美術館の理事
 ・音楽美術奨励会の会長
 ・後に貴族となって上院議員
 ・ロシア・バレーのバレリーナ、ロポコヴァの夫
*本書の章立ては以下
Ⅰ(第一章) 三つの階級・三つの政党ーーーケインズの階級観ーーー
 1920年代、イギリス経済学の変貌に対処した持論家としてのケインズ。ケインズの階級観と経済分析をもととする政治批判
Ⅱ(第二章) 知性主義ーーー若き日のケインズの思想ーーー
 人間ケインズの若い時代の彼に焦点を合わせて、19世紀の人間像と異なる20世紀の人間像を問題にする
Ⅲ(第三章) 新しい経済学の誕生
 主著『一般理論』の解説
Ⅳ(最終章) 現代資本主義とケインズ経済学
 ケインズ理論が残したものを検討するために、現代資本主義とケインズの理論との関係を問題にする


2019年9月16日月曜日

9月14日(土) 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社2014年


今日は、神山睦美主催の書評研究会で五月に逝去した加藤典洋『9条入門』をとりあげるとのことなので参加させてもらった。神山以外に、笠井潔、添田馨など文学系の人々も参加するということ、加藤の盟友で私の師匠(と勝手に思っている)の竹田青嗣が出席するというのも一つ参加理由であった。

竹田青嗣の冒頭発言は、この場においてはとても的を射ていた。しかもいつもと同じブレない言い方を基調に、一言で言えば、「今は文芸評論ではなく哲学にずーとはまっていって、文学とも離れたところにいる。社会を論じるには経済学など(他の社会科学)の勉強が不足しているので橋爪大三郎らと勉強会をしている。加藤典洋の『9条入門』については文学の視点から読んでみた。」というようなことであった。

出席者達の発言は、確かに文学者達の自由の感度に触れさせるものであったが、9条をテーマにして何かの合意を彼らから取り出すことは難しそうに思えたのは、個々の実存を主題として生きる彼らにとっては当然のことなのだろう。

ところで、このブログの表題の本についてだが、同時代を生きてきた同世代の人間として、著者が問題としてきたことに対して、私としては素直に共感できる部分が沢山あることに気づいた。現代世界の外部的な制限とそれに対する思考、例えば、ローマクラブの一連の研究(『成長の限界』など)、レイチェル・カーソン、シューマッハ、等々。更には、その問題をどのように受け止めてこの先どう乗り越えることが出来るかという思索の糧として、見田宗介の『現代社会の理論』で展開されている論理に共鳴しているところなどは、私の感覚と共振する。


9月1日(日) 高橋源一郎×鹿島茂 スペシャル読書対談―加藤典洋『9条入門』を読む

仲間のからの情報で、東京堂ホールにてこの対談があると聞いていってきた。
ベビーロマンチカ


興味は5月になくなった加藤典洋の著作の方にあったのだが、対談していた二人の顔を見て、「英雄達の選択」というNHKテレビの番組に度々ゲストとして出てくるあの人達であった。つまり、磯田道史と繋がっていると。
 
 それはさておき、加藤典洋の『9条入門』についての、というよりは、加藤典洋の思想を支えている態度についての対談者の感度は、私の感度と良く一致していた。つまり、社会で生じている事象についての「ほんとう」のところは、自分の内省に基づいたリアルにある、と言う、この感度が。具体的なこと、例えば9条をどう書き換えたり削除したり他の条項も関連してどうするが、あるいはなにもしないのか、などについては加藤典洋も高橋源一郎も鹿島茂もすっかり一致することはないのだろが、この感度が共通していれば、ある時点において仮に結論を出さなければならないとしても、本質的困難つまり対立から合意へと至ることの出来ないような困難はすでに除去されているのだろう。

2019年9月1日日曜日

8月31日(土) 加藤典洋『9条入門』追悼

モッコウバラ
最近逝去した同年代の文芸評論家の遺作的な本。加藤典洋さんは竹田青嗣さんの友人で、竹田さんが雑誌への追悼文を依頼されたが、なかなか書けなかったといっていたのを思い出す。
 本棚を見ると加藤さんの本が5-6冊並んでいる。本書と同じくそこには一貫して自分を内省して「ほんとうのところ」を探ろうとしている著者の態度が伺えることが思い出される。
 9条とは言わずとしれた日本国憲法第9条のことで、そこには平和主義に加えて軍隊の放棄が記載されているものだ。加藤さんは、戦後70年以上にわたる改憲と護憲論争には、「ほんとうのところ」に触れようとする態度が見られないと言っている。もちろん思い込みを避けて客観的事実を知ることは大事だから、本件についてもちゃんと調べているが、そこについては専門家のそれを読むのが良いだろう。
 
 要するに、憲法9条についての主権者としての国民の判断は、同じく主権者としての国家の判断に対して、自分で感じ取ったものを自分で考えるという態度で望む以外には原理的に無いのだ。個々人が事実に基づく(歴史とその時代の人々の心)ことの大切さと、内省すること(頭と心の納得の追求)の大切さを認識することによって。