自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2025年11月23日日曜日

『特殊および一般相対性理論について』(アインシュタイン)第一章

ピース

 もう三ヶ月もこのブログを書いていないが、本は読んでいた、それがこの本。知識を求めて斜め読みしても全然無意味な本の典型、アインシュタインの素晴らしい科学哲学書。

きっかけは、なぜか”科学”をもっと知りたいと言ってきた、まったくの文系と自認している古くからの友人から、文系の人は信用出来ないけど理系の知り合いはあんたしかいなかったので、とお声をかけて頂いたから。

私は哲学好きな元技術者だっただけで、先生でも学者でもないけど、最先端科学については興味があったし暇だったから、とりあえず四五人で読書会を始めてみ選んだのがこの本。著者のアインシュタインが一般読者向けに本人が書いた貴重な文章から、物理学の考え方を私なりに読み取って、逐次綴ってみようとおもいます。今回は第一章。

読み終えたら次は量子論に行こーっと。

第1章       幾何学の諸定理の物理学的内容(補足:ここでの幾何学はユークリッド幾何学)

幾何学は、平面、点、直線などのような観念と、それらの観念にもとづいて〈真〉と承認できるような簡明な公理から出発し、幾何学の諸命題(定理等々)は論理的に〈真〉と証明される論理の体系である。

しかし、〈真〉と承認できる根拠は何かという問いは、幾何学の方法によっては答えられないから、〈真〉という概念は純粋な幾何学の表現としてはふさわしいものではない。幾何学は、その概念と経験している諸対象との関係ではなく、その概念同士の論理的な関係を問題とするものである(補足:数学一般に拡張し得るだろう)。

幾何学の公理を〈真〉と言いたくなるのは、われわれの思考習性によるものだろう。つまり、幾何学の概念には自然の中で多少とも明確な対象が対応しているからだろう。(補足:思考習性とは、思考は経験から出発するほかはない、と捉えれば理解しやすい)

物理学は〈実在〉を対象とし、その〈真〉を問うものである(補足:最先端の物理学はこの〈実在〉の意味が深く問われているようだ⇒本書付記5は、一般相対性理論がその有力な一翼を担っていることを理解させる。もう一つは量子論となる)。従って公理の〈真〉を問うことが出来ない純粋幾何学は、そのままでは物理学の一部門としてとして扱うことは出来ないことになる。しかし、われわれの思考習性に従った以下のような一つの公理をつけ加えることによって、幾何学を物理学の一部門として扱うことができるようになる。

「実際の剛体につけた二点には、例え剛体がどのように姿勢を変化させようとも、常に同じ間隔=線分が対応する」である。やや不正確な言い方をすれば、幾何学の一定理が〈真〉であるということは、その定理が示すことと、コンパスと定規による作図とが一致すること、となる。

幾何学の公理が、実在において〈真〉であることを証明するには、かなり不完全な経験(測定)に頼るしかないから、それらの〈真〉には限界がある。その限界がどの程度のものなのかについては、後に取り扱う一般相対性理論において考えることができる。


2025年7月20日日曜日

NHKを退社独立後10年の取材で書いた『災害とデマ』(堀潤著)

 自分の外部で起こっている出来事について、何がホントで何がウソなのかが段々分からなくなっている。ネット情報やSNSの拡大はウソとホントの区分けを困難にしている。このことへの興味の一環としてこの本を買って通読した。
レッド・レオナルドダヴィンチ

 
 帯には「本当のSOS]を埋もれさせないために何が出来るのか?」と書いてある。東日本大震災および同時に生じた福島原発大事故の後にNHKを退社独立して様々な災害現場を自身で取材した著者の動機が表現なのだろう。ファクトチェックシステムなどネット技術を社会に役立つように利用するという前向きなやり方も現実に出現してきているようだが、 そもそも情報へのアクセスとして、「パブリックアクセス」と「オープンジャーナリズム」という分類で捉えると良いのではないかという指摘は参考になる。パブリックアクセスとは、「国家が有する資源は国民でありあれば誰でもつかうことができる」という権利で、電波はまさに国が管理するものであるから、国民は当然電波を自由に使う権利があるという考えかたです。公共財としての電波を使用する権利は、アクセス権、人権のひとつだというのです。オープンジャーナリズムとはSNSなどの発達に伴って議論されるようになった概念で、従来、編集権を主張し特定の職業メディア人たちによって行われててきた取材、執筆、撮影、編集作業に、一般の非メディア人が作成者の一人として係わる取り組み指します。と、説明されている。

  著者は、20世紀のメディアは歴史の後退が起こったと考え、このような参加型、協業型のニュースメディアの実現は、国家主義や過剰な商業主義の台頭で奪われた「知らせる権利」の人々に取り戻す、新たな民主主義運動と重なるものだととの認識して、市民ニュース「8bitNews」を立ち上げての活動もしているそうです。面白そー。

2025年6月14日土曜日

フランスの老神学・哲学者による超実在論対話 「神と科学」

アクロポリス・ロマンチカ
本書は1991年にフランスで出版されると一週間で六万部売れたとのこと。本の構成は、本書の「序」では哲学の伝統の上で最後の偉大なキリスト教思想家と紹介されているジャン・ギトンという1901年生まれの方と、二人の若い宇宙物理学者(AFP通信社によれば、1980年代に科学番組の司会で著名となったf双子の兄弟で、コロナに感染して72歳で相次いで亡くなったことが話題になった)との間でおこなわれている対話の形をとっている。「序」の文章は本書の出版を企画したどなたかが書いたものだろう。

古来より、人々は世界の様々な物や現象が何であるかを問い、宗教や哲学はその答えを出す役割を担ってきた。そして神はその営みの中で、神秘的な森羅万象の大切な根源として重要な役割を担ってきた。しかし、全てを真実に基づいて説明しようとする近代科学の思想がもたらした世界観は、それまでの宗教(ここではキリスト教)思想が許容できないものであり、そこには「神」と「真実」を巡る解決し難い確執という問題があった。しかし、20世紀に入ってからの現代物理学はその問題を解いたのかもしれない、と述べてている。キーワードは「実在」。本書は、神と現代物理学はともに「超実在主義」という共通する思想において、ついに和解する時代がやってきそうだ、と主張している。

現代物理学とは、相対性理論(特殊&一般)と量子論を指しており、それらが何故「超実在主義」という思想に基づいている理由について説明がされている。その中で、わかりやすい事例としては、量子論による物質の説明がある。物質とは実在と認識されるものであるが、それは詰まるところ物質とは到底言えそうにない素粒子(量子)から出来ている。従って、物質とは何かという説明の根拠は「実在」にはなく「超実在」にあると言う他ない、と。その他、時間、空間、エネルギー、粒子と波動、場(電磁場とか)、情報伝達、エントロピー、等の概念とその根拠となる経験の一部にが触れられているが、そのれらの根本には「実在」が無かったことが科学的に分かってきた、というような言い方になっている。

しかし、私にとってはそもそも、「神」と「真実」を巡る解決し難い確執という問題は存在しないので、神と現代物理学はともに「超実在主義」という共通する思想において、ついに和解しそうかどうかにはあまり興味はなく、強く興味を引かれるのは、現代物理学が自然を理解するために辿り着いた驚くべき概念と、その概念が経験において生成してくる限りにおいて人間の共通認識となる(あえてつけ加えるなら科学というものの価値はそこにある)というということです。その点において本書から改めて示唆されたものは、相対性理論(特殊、一般)と量子論の概念形成プロセスを出来ればそれらの創設者達の著作から読み取る必要があると言うことでしたが、結構難しそう。読んだらまたこの読書日誌に書くことにしますね。最近話題の量子コンピュータは、その理由は不明でも桁違いの素晴らしい性能が予測されていてもう東大で試作しているそうで、楽しみですね。


2025年6月9日月曜日

世界政治を提唱する坂本義和先生の回想録『人間と国家上・下』(岩波新書)

ピース(蕾)
 平凡社世界百科事典には、「国際政治」という項目とは別に「世界政治」という項目も載っています。いずれも坂本先生が執筆で、後者は前者の5~6倍の文字数で書かれており、力の入れようが窺えます。先生が出版社から「国際政治」の項目に対する執筆依頼が来た際に、もう時代は「世界政治」の時代だから、この題で引き受けると仰ったそうで、なるほど。


1962年に高坂正堯先生が坂本先生の研究室を訪ねてきて、東大前の喫茶店で3時間ほど話し合ったことに触れられていた。当時、ジャーナリズムによって理想主義者の坂本先生と現実主義者の高坂先生という安易な対比がされていたそうで、このお二人が3時間話し合われた内容には興味を引かれますが、「話していて、この人(高坂先生)は「戦争の傷」を骨身にしみていないという印象を禁じえませんでした。」という坂本先生の感想は、自分は現実主義者ではないがリアリストだと述べていても、やはり理想主義者の言葉だと思えます。

どうも、両先生の考えの相違は、「国家」の捉え方にあるとも言えるのではないでしょうか。また、坂本先生の言う世界市民が、国民国家である主権国家間の権力闘争を超えて、平和な世界を確実なものとする条件は何なのだろう、という問いの立て方は妥当だろうと思っていますが、その問い自体は既に現実主義に基づくものだろうと思えます。

2025年5月24日土曜日

今道友信先生の哲学史、あとから読む方がよく分かることが分かった

フランポアーズ・バニーユ
 読んだのは22年前に読んだ記録がある今道友信先生の『西洋哲学史』。外出時の電車の往復にと、本棚にあった手軽な文庫本を持参して読み始めたら、面白くてすぐ読み終わってしまった。どうして今道先生の哲学史だったのかというと、当時先生が講師をしていたカルチャーセンターの哲学史講座を受講していた時、受講内容は忘れてしまったものの、碩学だけど素人に分かりやすく説明してくれる良心的な人だという記憶があったからだろう。

本書は、今道先生の面目躍如な西洋哲学史だった。こんどは面白く読めたのは自分が一応ソクラテスからハイデガー等までを結構繰り返し読んできたからだろう。取り上げられていた哲学者たちの諸説とその関係は網羅的に解説されている。哲学の名著を読んで面白いと思う経験がないのに、哲学史を教養として読もうとしても殆ど無意味なことは、考えてみれば当たり前だということに気がついた。もうひとつ、哲学史は碩学の著作でないといけませんね。

2025年4月20日日曜日

高坂正堯先生論壇デビュー作「現実主義者の平和論」

このデビュー作は1963年というから30歳頃のもの。寅さん風に言えばさしずめアンタ、インテリだね、の論壇知識人と言えば現実主義の反対、つまり理想主義の方々のような気がするが、理系少年であった私は、その筋の本は読んだこともなかったからそれが誰だったのかはあまり覚えていない。しかし、毎日配達されてくる新聞は朝日新聞、オヤジが毎月買ってくるのが文藝春秋なので、世間一般の思想的風潮は何となく感じ取っていて、それは日本国の平和憲法擁護に代表されるような理想主義的風潮だったと思う。
モッコウバラ

似たような別ブログで書いた、『国際政治 恐怖と希望』(⇒爺~じの本の要約)はもう少しあとの著作だが、「理想主義」の危うさを批判し「現実主義」(リアリズム)を説いている。

ところで、国際政治や国際平和をリアリズム抜きに考えることに意味があるのだろうか?と考えてみれば、現実主義者の平和論、とわざわざ言う理由を推察できそうだ。カントも「理性の誤謬推理」を指摘しているし、フッサールも、「まず現象の記述からはじめよ」(『現象学の理念』)と言っているし、あっこれは直接関係ないけどそう思う。

高坂先生は、世界に冠たる平和憲法の特に憲法9条の非武装条項は日本が追求すべき絶対平和という価値であると評価し、非武装中立論も国家の価値の問題を組み入れているところを評価している。でもそれは、理想主義ではなく現実主義に基づいたものであるところが肝となっている。ここで、国家の価値というコトバが高坂先生の考え方というか歴史観のキーワードであることが読み取れる。それは56歳の頃の講演録(『歴史としての二十世紀』2023年)に、異なる文明との遭遇の箇所で「それぞれの国の国民あるいは民族には、一般的な精神があり、それから離れるとその国民・民族の能力は落ちてしまう・・・」という記述にあるように、各国家には、チョット危ういニュアンスと本人が仰っているけど「民族の精神」という価値があると述べられていることから明らかだ。だが、同時に各国に共通な普遍的な価値あるいは正義は無くなりそうだが、この問題を解くには、言い換えれば世界平和を望むなら、理想主義では無くて現実主義でなければならない、ということなのでしょう。

2025年4月13日日曜日

『天災から日本史を読みなおす(2014)』磯田道史 中公新書【感想】


ブログの断捨離中で、10年ほど前のをこちらに引っ越しました。

ハニーブーケ

『武士の家計簿』以来著者のファンである。著者が、歴史は生身の人間の生活から読み解かれるものである、と考えているように思われるからである。そして、古文書を専門的な技術と総合的な知識を駆使して、経験に基づいて解釈するという実に科学的(本来の意味における)な方法によって貫かれているからである。

 東日本大震災を契機に書かれた本書は、日本列島において過去に発生した自然災害の歴史も、適切な古文書を探して解読していけば相当なことが判ることを改めて教えてくれた。だが、同時に不幸な歴史は時とともに忘れ去られていくという史実も思い出させてくれた。地震、津波、噴火、異常気象のもたらす異常な風水害、これらは日本列島においては特に頻度も程度も高い。にもかかわらず、過去から学ぶことが出来ずに悲劇が繰り返されるのはなぜだろう?

 いま一歩突っ込んで考えれば、誰が学びそれを生かして実行するのか、またそうする動機はなにか?関連して悲劇に見舞われる人々の差異は?等々。本書はこれらの解明の第一歩になると思うが、その次のステップも視野に入っている。

2014年、広島市の八木地区において、そこが「蛇落地」と呼ばれていた場所に作られた団地で発生した大規模な土砂崩れによって多くの犠牲者が出た。このことに関連して、本書で次のように書かれている。「この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。自然はコントロール出来ると、人間優位を驚くほど信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。(改行)この地の領主が「自然に勝てる」と思い始めたのは、戦国時代のことであったらしい。・・・」。八木を治めた香川一族の子孫が著した古文書には、先祖が享禄五年(1532年)に大蛇を退治した、と自慢気に書き残されている。町史に載っている「蛇落地観音像」の写真のお顔は慈悲深く「みているうちに、なんともやりきれなくなってきた。」