自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年6月27日火曜日

6月27日(火) 知る人ぞ知るフェミニスト田中美津さんの『いのちの女たちへ』

 昨年、友人紹介で田中美津さんの講演会に行って来た。田中美津さんといえば、知る人ぞ知る1970年代ウーマンリブの中心人物だそうで、その時買ってきたのがこの本。この本も面白いけど、本人はもっと面白い人だった。孫達が、日常の差別意識という問題に気付いてくれますように。

差別問題を、被差別者としての女性の視点から掘り下げる、その感性が素晴らしい本。「いつも、闇から光はよく視える」のである。
複雑に入り組んだ現代社会を生きて行くには沢山の知識と考え方を学んでいかなければならない。しかも言語を通して。家父長制下での男性は存在価値を得るには必死にそれら収得してますます生命力を喪失していくが、女性の方は子供を産み育てる存在という生きものとしての規定を免れないだけ、いくら理屈でホントのところを誤魔化そうとしても、誤魔化しきれない存在なのだ。

「とり乱しはリブの合い言葉」。一人の人間の中には互いに矛盾する本音がいくつかあるから、本音の語りは言葉で表現できるものではなくて「とり乱し」を通してしか表現できないものである、から。問題の本質は、人間の差別意識にある。そのことは、被差別者が差別者の、また非差別者同士の「寝首を掻く」(神話の悪女ユーティッドのように)ことをされたくないし、したくない、と言う著者の言葉にも象徴されている。



2017年6月21日水曜日

6月21日(水) 『漂海民』羽原又吉著 漂流民ではなくて漂海民です

 漂流民、という言葉は知っていたけど、有名なところでは中浜万次郎とか、漂海民というのはそれとは違う。陸より海に住みつつ海を生業として暮らしていた人々のことらしい。
 著者は「日本漁業経済史」を専門とする方で、『漂海民』は1963年に岩波新書で出版され、その後アンコール復刊版を2014年に読んだ。動機は、国とは何であろうか、という素朴な疑問の答え探し、というと大袈裟だが、そういうこと。

 感想を一言で言えば、人々の生業があって、それから国家があるということを思い出させてくれる本、ということになろう。
 暮らしていけるなら、陸でなくて海でも良い、これは当たり前なのかもしれない。古来、海を住居として一生を暮らす人々が居たらしい。もちろん陸にあがって物資を調達したりいろんな用を足すとしても。
 文献にでてくるのは中世頃らしく、中国大陸沿岸部、日本列島などアジア各地での存在が記録されているとのこと。日本においても最近までそのような生活形態をとって生業を立て暮らしていた人々が居た。一般にマイノリティーがそうであるように、彼らも差別の対象であった。
 彼ら漂海民には多くの謎があるが、何か現代において忘れられている、生きることに関わる大切な価値を継承してきた人々なのかもしれない。それは、海という圧倒的な自然によって生かされているという意識、陸上の農耕・牧畜のように人為的に食べ物を生産したり、また富を蓄えようとも思わない意識、行き場がなくなれば未知の世界に漕ぎ出す他はない、というのかそれができる、という意識、そのような意識がつくり出す価値かもしれない。


2017年6月17日土曜日

6月17日(土) 長谷部恭男先生の『憲法と平和を問いなおす』をアップしました

樹齢60年のボケの花

この本を読んでアップするとブログで言ってしまってからもう二ヶ月が経ってしまった。【要約】は別ブログ(爺~じの本の要約: 6月 2017 (gansekimind-bookmemo.blogspot.com))に掲載しましたので、こちらの方は感想部分だけ掲載します。


『憲法と平和を問いなおす』長谷部恭男 ちくま新書

【感想】

新書だが内容は深く読み応えがある。それはタイトルからしてそうであるはず。箇条書き風にしても結局A430ページ程になってしまった。

どうすれば平和に共存できるのか、ボタンを押せばその答えが出るのではなく、結局は「自分で考える」他はない、著者はそう言っている。少し内容は難しくて理解できないところがあるかも知れないが、そのことを孫達が感じ取ってくれれば良いと思う。

2017年6月11日日曜日

6月8日(木) 水野和夫・萱野稔人 経済対談

積ん読となっていた新書本を待ち時間つぶしにと何気なく手に取って読んだら、とても面白かったので読書記録を見たら6年前に読んでました。しかも、何の感想もなかったみたいで!。それは2010年に書かれた『超マクロ展望 世界経済の真実』という題名の新書で、当時57才の経済学者と40才の哲学者の対談です。そこの書かれている内容は題名のごとく超マクロ的、世界史的な経済展望(真実かどうかはわかりませんでしたが)、一言でいえば、500年続いた資本主義は現代に至ってついに行き詰まった、でもその先は正直よくわからんというものです。
読書日記に書こうとしたのは、この本の内容を紹介したいからではなく、読み終わるまで既に読んでいたことを全く思い出せない本がたった六年後の今回面白いと思ってしまった理由でした。それは、たしかに老化現象による記憶力の低下も関係していることは否定しませんが、最近の世の中の動きがおかしいのではないか、という意識でここ数年来持ち続けてきた関心のなせる業だろうと、つまり書かれていることの意味の理解が進んだのだろうと、その点においては若返っているのだろうと。


2017年6月6日火曜日

6月5日(月) 日露戦争後に出版された警醒の書『日本の禍機』(朝河貫一著)


最近の世の中、世界的に変な雰囲気がが漂ってきているなー、と感じていたら、十数年前に読んだこの本を思い出し、感想文に掲載することにした。
 この本は、現代中国解説についてはピカイチと私が思っている矢吹晋先生の推薦だが、読んでみて、世間ではあまり注目されないと思う本書を推薦した先生の慧眼にも改めて敬服した。ということで、感想文を下記した。




 日露戦争と第一次世界大戦の間に著された、日本外交に対する警醒の書。その内容は世界の歴史と時代状況の客観的把握に基づいたもので、その後日本が辿った悲惨な歴史を鑑みると、著者の慧眼が証明されているように思える。当時の日本人にこのような人がいたことは、何か日本の知に対して誇りを感じるが、それ以上に人間の知そのものに対する自信さえ与えてくれる。

 著者の主張のポイントは、大体次のようになる。東アジアを巡る当時の世界情勢に二つの外交方針が存在した。一つは列強が支那を苦しめつつ相争いて自利を計る政策(旧外交と称す)、もう一つは支那の主権を尊重しつつ諸国民の経済的競争の機会を均等なるべくを謀る政策(新外交と称す)。日本は新外交を方針とし、世界の輿論を背景に日露戦争に勝利したが、満州等において更なる利権を手中にした後には、現存する新・旧外交の矛盾を解消するのではなく、政府は私曲(著者のキーワードの一つ)により旧外交へと逆行し、国民もそれを支持していると批判している。そして、このまま進めば清国を巡り米国と争いになると予言している。
 因みに著者は大学を卒業後23歳で渡米し、エール大学の教授となり、その学問的業績評価は日本ではなく欧米で高い人とのこと。