自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年6月11日日曜日

6月8日(木) 水野和夫・萱野稔人 経済対談

積ん読となっていた新書本を待ち時間つぶしにと何気なく手に取って読んだら、とても面白かったので読書記録を見たら6年前に読んでました。しかも、何の感想もなかったみたいで!。それは2010年に書かれた『超マクロ展望 世界経済の真実』という題名の新書で、当時57才の経済学者と40才の哲学者の対談です。そこの書かれている内容は題名のごとく超マクロ的、世界史的な経済展望(真実かどうかはわかりませんでしたが)、一言でいえば、500年続いた資本主義は現代に至ってついに行き詰まった、でもその先は正直よくわからんというものです。
読書日記に書こうとしたのは、この本の内容を紹介したいからではなく、読み終わるまで既に読んでいたことを全く思い出せない本がたった六年後の今回面白いと思ってしまった理由でした。それは、たしかに老化現象による記憶力の低下も関係していることは否定しませんが、最近の世の中の動きがおかしいのではないか、という意識でここ数年来持ち続けてきた関心のなせる業だろうと、つまり書かれていることの意味の理解が進んだのだろうと、その点においては若返っているのだろうと。


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