自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年6月6日火曜日

6月5日(月) 日露戦争後に出版された警醒の書『日本の禍機』(朝河貫一著)


最近の世の中、世界的に変な雰囲気がが漂ってきているなー、と感じていたら、十数年前に読んだこの本を思い出し、感想文に掲載することにした。
 この本は、現代中国解説についてはピカイチと私が思っている矢吹晋先生の推薦だが、読んでみて、世間ではあまり注目されないと思う本書を推薦した先生の慧眼にも改めて敬服した。ということで、感想文を下記した。




 日露戦争と第一次世界大戦の間に著された、日本外交に対する警醒の書。その内容は世界の歴史と時代状況の客観的把握に基づいたもので、その後日本が辿った悲惨な歴史を鑑みると、著者の慧眼が証明されているように思える。当時の日本人にこのような人がいたことは、何か日本の知に対して誇りを感じるが、それ以上に人間の知そのものに対する自信さえ与えてくれる。

 著者の主張のポイントは、大体次のようになる。東アジアを巡る当時の世界情勢に二つの外交方針が存在した。一つは列強が支那を苦しめつつ相争いて自利を計る政策(旧外交と称す)、もう一つは支那の主権を尊重しつつ諸国民の経済的競争の機会を均等なるべくを謀る政策(新外交と称す)。日本は新外交を方針とし、世界の輿論を背景に日露戦争に勝利したが、満州等において更なる利権を手中にした後には、現存する新・旧外交の矛盾を解消するのではなく、政府は私曲(著者のキーワードの一つ)により旧外交へと逆行し、国民もそれを支持していると批判している。そして、このまま進めば清国を巡り米国と争いになると予言している。
 因みに著者は大学を卒業後23歳で渡米し、エール大学の教授となり、その学問的業績評価は日本ではなく欧米で高い人とのこと。

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