自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年7月18日火曜日

7月18日(火) 資本論第三部第五編がもうすぐ終わります

元来経済音痴の私が、よくぞここまで、と

自分を誉めてもあまり意味が無い。
利子、それは労働搾取で掠め取った貨幣を、産業資本家と貨幣資本家で分け合う部分の一方であり、利潤とは違って資本主義的生産の法則によって規定されない偶然的なものである。が、ここに新しい対立、資本同士の対立もまた生まれてくる・・・。マルクスの経済思想は一貫しているとしても、次第にその思想からだけでは経済学としての限界を打ち破れなさそうになってくるような気がする。
お金をストックとフローに分けて考えると良い。友人の銀行家から以前聞いた時に目から鱗がハラハラと落ちた言葉なのだが、この言葉を第五編あたりで改めて思い出したことも、その証左なのかも知れない。

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