自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2017年7月30日日曜日

7月30日(日) 普通の人が哲学の意味を理解するのに最良の本『はじめての現象学』(竹田青嗣著)


私は、『はじめての現象学』(海鳥社1993年)だと今でも思っている。最初に読んだのは1996年で50才くらいの頃だったが、衝撃的であったことを覚えている。何が衝撃的かと言えば、読んでみて深く納得できた気持ちになれたはじめての哲学の本だったからだ。納得というのは、哲学の意味と価値が分かったように思えたことについてであった。つまり難解な古典や小難しい現代哲学の理解など、哲学に対する通俗的理解が進んだというのではなく、われわれにとってもっと本質的なこと、つまり哲学とは、自分や他人が抱えている問いや謎を解く普遍的(誰でも納得可能)な原理、あるいはもっと簡単にツールなのではないかと気づかされたのである。

同じ著者による『現象学入門』竹田青嗣 (NHKブックス1989)は少し専門的ではあるが、そうであるがゆえに同様な意味において更に衝撃的な本であった。読んだのは、2003年頃であるが、以降フッサールやハイデガーをはじめとする現象学からポストモダンにいたる本を読むたびに欠かせない参考書として何度も読み返すことになった。

ここで2003年頃に行われた竹田青嗣先生(及び西研先生)の社会人向け哲学連続講座のノートメモから、現象学とは何かについて竹田先生が説明した記述を以下に抜粋してみた。
現象学は近代の認識問題を解く可能性を秘めた哲学思想・手法で、自然科学認識から個人の心の認識、社会の共通認識等を通して今後その有用性が期待される。人々が互いに信じるものが異なったときにこれを克服する手段はあるか?という問いに対して、カント、ヘーゲル、ニーチエ、は答えていないがフッサールは答えようとして現象学のプランを立てた。それは、人は各々の経験に基づいた「確信」を持ちその「確信」が成立する条件が存在しその条件を追い詰めていくと普遍的構造があると考えこれを解明すること、である。

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