ピエール・ドゥ・ロンサール |
ニーチェ 道徳の系譜(1887年)
(ちくま学芸文庫版。新太正三訳)
「 」内は本文引用。( )内は私の補足。★印は私の一言
十と十一
★いよいよ、キーワードの<ルサンチマン>(怨恨)が登場する。ルサンチマンによって、道徳の価値が逆転し、強い・優良<よい>(グート)が<悪>(ベーゼ)に、弱い・劣悪<わるい>(シュレヒト)が<善>(グート)になる。
「すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳は自己自身に対する勝ち誇れる肯定から生まれ出るのに反し、奴隷道徳は初めからして<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>に対して否という。つまりこの否こそが、それの創造的行為なのだ。価値を求める眼差しのこの逆転―――自己自身に立ち戻るのではなしに外へ向かうこの必然的な方向―――こそが、まさにルサンチマン特有のものである。」
「貴族的人間というものは、おのれの敵に対していかに多くの畏敬の念を持っていることか!・・・これに反し、ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい、―――そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像とし<善人>なるものを考え出す、―――これこそが彼自身というわけだ!・・・」
「こういうわけで、貴族的人間における場合とは事情はまさに逆なのだ!貴族的人間は<よい>(優良)という基本概念をまずもって自発的に、すなわち自分自身から考え起こし、そこからしてはじめて<わるい>(劣悪)という観念をつくり出すのだ!」
★人類の歴史を顧みれば、貴族的種族(ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の、ホロメスの英雄達、スカンディナビアの海賊達)が異郷に接する段になると、放たれた野獣とさして違わなくなる。彼らの根底には獲物と勝利を渇求して彷徨する壮麗な金毛獣を認めざるをえない。金毛獣に蹂躙された人々が彼らを<悪い敵>として<ゴート人>とか<ヴァンンダル人>とかと名付け、怖れるのは無理もない。だが今日信じられていること、すなわち<人間>という猛獣を飼育して家畜に仕立てることことこそ文化の意義があると言うこと、これが真っ当だとすれば、反動本能とルサンチマン本能こそ真の文化の道具であることになるが、その反対こそ真実であるのは明白である。金毛獣を怖れて出来損ないの者らの吐き気を催す眺めから逃れられない羽目になるよりも、怖れる方(同時に驚嘆もできるとして)を選ばない者がいるだろうか。今日苦しみ悩んでいる<人間>はそうした選択に直面している。われわれの嫌悪をかき立てるものは、ルサンチマンの人間がおのれを<より高い人間>だと自負する権利を持つということだ。
「今日われわれの嫌悪をかき立てるものは決して恐怖では無い。むしろそれは、われわれが人間に恐怖すべきものをもはや何ひとつ持たないということだ。<人間>いう蛆虫がのさばりだし、うようよしているということだ。」
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