自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年6月26日火曜日

6月26日(火) カント 純粋理性批判(Ph版)① 序論ⅠとⅡ

春の二番花たち

純粋理性批判をまた最初から読み始めるにあたり、10年以上前に作成した読書メモ(岩波文庫版)を読んだりしていたら、前回の投稿が13日も経ってしまった。
今回はPh版を基本にした平凡社ライブラリーをテキストにしたが、第一版と二版の両方が
比較可能なように記載されていている点は理解を助けると思う。特に序論は、上下に区分されて対応的に記載されていて、分かりやすい。


序論(第二版)

Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別について

あらゆる認識は経験でもって始まる。なぜならば、認識能力が働き出すのは対象による他はないからである。対象は感官を動かし、表象を生じせしめ、悟性の活動を運動させる。悟性は、それらの表象を比較したり結合したり分離したりして、感性的印象の素材を経験と呼ばれる対象の認識へと創り上げる。それゆえ、時間的には認識は経験に先行しない。
しかし、あらゆる認識は経験から発するのでは必ずしもない。なぜなら、経験認識ですら、私たちが諸印象を通じて感受するもの(=A)と、私たち自身の認識能力が感性的な諸印象によって誘発されておのれ自身のうちから供給するもの(=B)とから合成されたものでもありうるからである。そうはいっても、私たちがBという付加物をAという根本素材から区別するのは、Bに気付いてこれを分離することに熟達するまではできないことである。
それゆえ、経験に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないような認識があるかどうかは、少なくとも一層の研究を必要とする、直ちには片づけられない問題である。そうした認識はア・プリオリな認識と名づけられる。ア・プリオリな認識ではない認識、すなわち認識の源泉を経験のうちに持っている認識をア・ポステリオリな認識と名づける。
ア・プリオリな認識のうち、経験的なものが全然混入していないような認識は純粋と呼ばれる。例えば、あらゆる変化はその原因を持つという命題は、一つのア・プリオリな命題ではあるが純粋ではない。なぜなら、変化は経験からのみ引き出されうる一つの概念だからである。

Ⅱ 私たちは或る種のア・プリオリ認識を所有しており、だから普通の悟性ですらそうした認識を決して欠いてはいない

問題は、純粋認識と経験的認識を区分する徴表は何かということである。経験は、或るものがこれこれの性質を持っているということを私たちに教えはするが、その或るものが別様ではあり得ないということを教えない。それゆえ、第一には、同時に必然性をも持っていること命題があれば、その命題はア・プリオリな判断である。第二には、経験は厳密な普遍性を与えられず、帰納による比較的な普遍性しか与えられない。それゆえ、ある判断が厳密な普遍性において思考されるなら、言い換えれば、いかなる例外もあり得ないと思考されるなら、その判断はア・プリオリである。経験的普遍性は、例えば、すべての物体は重さを持つと言う命題のように、たいていの場合に妥当するのをすべての場合に妥当すると、その普遍性を勝手に高めものに過ぎない。したがって、必然性と厳密な普遍性とは、ア・プリオリな認識の確実な目印である。
ア・プリオリな純粋判断の実例の一つは数学である。またごくありふれた例では、すべての変化は原因を持っていなければならない、という命題である。ヒュームのように、生起するものは習慣から生じると考えると、この命題はア・プリオリな純粋判断として成り立たなくなり、そうなると経験の規則は偶然的となって、経験は己の確実性の根拠をもてなくなってしまう(ここでのヒューム批判は取りあえず聞き流そう)。
 判断だけでなく概念についてもア・プリオリなものがある。物体という経験概念から、経験的に持っているすべてのものを除去ししてもなお物体が占めていた空間は残存するし、物体ではなくても、そこから経験が教えるすべての固有性を除去してもなお残る実体という概念が、諸君の認識能力のうちにア・プリオリにその座を占めていることを承認せざるを得ないであろう。




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