自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2018年5月5日土曜日

4月30日(月) 『資本論』完読祝い

良い香りの「芳純」
仲間と始めた『資本論』全三巻の講読会が4月30日に終了した。一人で読むのは続かないだろうと仲間に呼びかけ、はじめは3人くらい集まれば始めるつもりであったが、結局平均7名くらいは継続してくれた。読書会の回数は31回、期間にして3年10ヶ月、回り持ちでレジュメを作って残してある。最後は意地で終わらせた感じではあったが、確かに完読した。現代では人気がなくなったとは言え、その考え方の一部は現代国家の政策にも採り入れられており、やはり名著として読み継がれる価値があると思った。
 私自身のまとめは別途作成し、第一巻については別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に26回に分割して各章毎に、第二巻については「爺~じの「本の要約・メモ」」に一度に、まとめてある。第三巻については一度にまとめて作成中。
 本書を一言で紹介しろと言われたら何と答えたら良いだろう。例えばこういうのはどうだろうか。マルクスは19世紀の西欧において起こっている社会の不幸を目の当たりにして、同じ人間達なのにどうしてこんなことになっているのだろうか、どうすれば良くなるのだろうか、と問い、人間の基本的営みである経済活動の研究を通してその答えを出そうとした。本書は、まず経済学の本である。しかし、富が生み出され、分配され、増殖し、また恐慌が発生して不幸が襲うという現象の説明には、当然のこととして、政治・社会の力関係を理解しなければならないし、将来の社会構想の一部分も述べなければならないことになるから、それらのことも本書には記述してあるが、そのまま現代には通用しないのはマルクスのせいではない。
 人間社会における経済活動は、生活に必要なものをつくり出してお互いに交換し合う(多くは貨幣を媒介して)人間活動の一つ、ということになるだろう。マルクス経済理論の根幹は、大きく捉えれば労働価値説と剰余価値説となる。前者は既に17世紀末頃からは西洋世界で一般に信じられている説なので基本的には新しい考えではないが、後者は、労働から生み出された価値のうち、一部が労働する人のものではなくて労働する人に賃金を支払って雇い入れる側の人びとの手に渡る仕組みとなっているのだ、という説。利子や地代などについても、上記の考えから、一言で言えば剰余価値の分け前として説明される。
 もう一つ、マルクスの考えには次のような前提があると思う。経済活動の生み出したものの内には価値というものが備わっていて、それが経済活動のいろいろな場面でいろいろな形態として目に見えるものとして現れてくる。例えば、商品、貨幣、支払手形、等々。そしてそれらには、元々備わっている価値とは別に、目に見えないある力が備わっている。資本と呼ばれるものである。この資本が社会的諸関係によって様々な形態をとりながら運動しており、そこには法則がある。つまり、一番基本にある概念としての商品に備わっている価値(価格はその表現)は、人が作りだした理念であって、言ってみれば哲学で昔から問題にして生きた、真・善・美のような類なのかも知れない。とすると、いくら科学の装いを纏っても、その部分に関しての経済学としての疑義は申し立てられそうだ。とても難しそうだけど。
 
 
 
 

2018年4月5日木曜日

4月5日(木) アインシュタイン『物理学はいかに創られたか』。これは哲学書である



本書は物理学の巨人アインシュタインと著名な物理学者インフェルトによって著されたものを1939年に石原純先生が岩波新書の上下二冊として訳されたものです。私は1966年に初めて読み、その後カントの『純粋理性批判』を読書中に、物理学の哲学的思考の推移を改めて追ってみたくなり再読した。本文は2004年に感想文として書いたものの改訂版です。
原著の序文には次のような一文が記されている。「私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした。つまり世界の実在に対応するような観念を科学の名で案出してゆくところの原動力を示そうとしたのでした。」。科学の価値は、結果として得られる事実としての知識だけではなく、より本質的には哲学的な思考にあることが示されている。この本質を理解することなしに科学の知識だけを利用しようとするならば、人間という種は絶滅するだろう。
上巻は古典力学が中心に述べられている。力の概念と関係、運動の概念とガリレオの相対性、物質の属性としての重量質料(重さの指標)と慣性質料(動きやすさの指標)の統合、エネルギー伝達としての波動の概念と力学の関係、何故エーテル(空間を満たしている仮想の実体)という奇妙な概念の導入がなされたか、などなど。それら全てにわたり、自然に対する認識には哲学的思考が必要とされていたことが理解できる。
人が対象を認識するにはその対象を良く観察して本質を洞察することがなにより重要だが、ただ漫然と観察したり想像してみただけでは何も見えてこない。観察したり推論したりするその意識の方向が定まり関心の密度が濃くなっていくことが必要となる。それを可能ならしめるのは、思考実験と論理的に矛盾しない理論的仮説つまり人間の精神が生み出す創造物、及びその仮説の実証行為であると思う。実証行為には必ず条件、例えば実証するための道具(例えば望遠鏡)の種類や性能、数学や計算速度、もっと広くいえば経済力や人間の教育、等々が変化(科学対するそれは進歩と捉えられることが多い)するのだから仮説と実証という人間の営みは果てしなく続く。
下巻は、相対性理論と量子論について語られている。慣性系(普通、人が感じ取っている生活空間における運動を理解するにはこれで十分)における特殊相対性理論が時間と空間が関係していること、つまり、運動しているものは時間の経過が長くなり空間の距離が短くなることが示される。物質とエネルギーの同一性も呈示される。一般相対性理論が慣性系という座標から開放され、ニュートン物理学を完全に包括し、座標に関係のない物理学理論を構築する。日常の世界から離れて、世界の始原と果てに対する問いへの科学的探究がここから飛躍する。エネルギーと物質が等号で結ばれ、物質を構成する究極の構成単位への問いにはエネルギーについてのそれと等号で結ばれ、量子論がその問いに対する科学的探究を飛躍させる。
現代において人びとの日常生活を一変させている人工的な物質や莫大な量のエネルギーや時空を越えた交通・情報伝達サービス等々は、これらの科学およびその応用である技術の結果に依っている。しかしこれらの結果を生んだ科学についての哲学的問いの動機は、せいぜい好奇心ぐらいだろうとしか一般には理解されていないようだ、つまり結果には注目するが根拠には興味が無い。科学に対する好奇心が他のものに対するそれに比べてとても強かったから科学がこれだけの力を持つたわけではないだろう。
精神的存在としての人間は、「観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てる」ものなのだ、という著者らの洞察は哲学的本質を突いている。そして、世界の始原と果てに対する問い、物質を構成する究極の構成単位への問い、は今でも最先端の科学研究として続いており今後も果てしなく続くだろう。しかし、これらの究極の問いには答えはないことは18世紀末にカントによって著された純粋理性批判に記述されている(アンチノミー)。だが、ここで重要なのは、その「答え」とは何であるのかと、という問いの意味だろう。自然に対するその問いは、人が何かを、例えば世界の果てや究極の物質、を認識するという意味は何であるかという問いに包括される。

2018年3月7日水曜日

3月7日(水) カントは70歳を過ぎて『永遠平和のために』を出版した


今日は、10年ほど前に書いた『永遠平和のために(カント)』のメモを記載した。

シンデレラ
200年以上前に書かれたこの本は、大哲学者カントが晩年(71歳の時に初版)、永遠平和を希求して著したものだ。訳者は解説で、カントはこの原理を更に展開したいと語っていたが実現しなかった、と述べているように、本書には原理しか書かれていない。しかし、それが却って原理を際立たせてくれる。現実を追認して肯定する視点からは、永遠平和を達成する原理を理解することの大切さは見えてこない。だから、今でも読む価値がある。

内容をかいつまんで記述してみると次のようになる。本の構成は二つの章と二つの補説および付録二項からなっている。第一章は、人類がこのまま行けば戦争により滅亡するであろうことを防ぐための条件が書かれていて、六つの条項から成っている。特に有名なのは、「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」という条項である。

第二章は、永遠平和のための三つの施策が書かれている。その施策とは、国家は共和制でなければならないこと、国際関係は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきこと、世界市民法は普遍的な友好の諸条件(征服ではなく、友好的な訪問の権利が認められ、それが次第に世界市民体制へと近づける、という考え)で規定されるべきこと、である。

補説では、それらの根拠として主として自然の合目的性(カントの言う目的性については『判断力批判』に書かれている)を挙げている。

付録では、基本的にカントの定言命法(『実践理性批判』に出て来る命題で、「自分の行為のルールが、同時にいつでも誰にとっても妥当なルールとなるように行為せよ」というもの)と義務を求める道徳哲学に基づいた議論がなされている。

その他、政治と道徳の二律背反(二律背反=アンチノミー、に関しては『純粋理性批判』に書かれていて、とても面白い)公表性をキーワードとして一つの原理を提出している。

2018年2月28日水曜日

2月28日(水) フッサールの哲学は、哲学を端的に知るのに最良の哲学

 3月3日から一泊二日で哲学合宿に行く。主なテーマはフッサールのイデーンⅠの講読だ。そこで2005年に書いた「イデーンⅠ」の冒頭に書かれている「あとがき」部分だけの要約を読んでみたら、改めて題記のことが思い起こされた。「イデーンⅠ」という本は普通読んでもわからないが、この「あとがき」部分は、哲学って何だろうと思った人には誰にでも、何となくわかったような気分を生じさせてくれる。この部分の要約は別ブログに掲載した。

 哲学の意味をもっともわかりやすく書いてある名著が最近出版された。といっても哲学の解説書ではない。従来の哲学を一歩踏み越えて著者が提示した哲学書だ。竹田青嗣著『欲望論 第一巻「意味」の原理論』『欲望論 第二巻「価値」の原理論』がそれだ。二冊で厚さ9cmもある大著だが、いつか別ブログにその要約をアップロードしたいとは思っている。

2018年2月19日月曜日

2月19日(月) カント『純粋理性批判』の感想文

『純粋理性批判』の「名著読解」が、遅々として進まず何時できるか判らないので、2008年に書いた感想文を改訂して掲載した。


カクテル
『純粋理性批判』には、ものごとを認識するとはどういうことなのかという問いに対するカントの答えが述べられている。その概要は次のようなものだ。

まず認識には対象があるのだが、その対象の認識は、アプリオリに(経験に先だって、先験的に、生まれつきに)人間に与えられている二つの能力、すなわち感性と悟性によって可能となる。感性は経験がもたらすものによって機能し、悟性は感性がもたらすものによって機能するのだが、人間はもう一つ理性という能力を持っている。理性は、経験を越えて推理するという性質を持っている。

対象の認識は以上のようになされるのだが、対象そのもの自体(物自体)が何であるのかは決して知ることはできない。あくまでも人間のアプリオリな感性や悟性を通したものとしてしか認識できないからである。

感性により与えられた(即ち五感を通じた経験によって与えられた)素材を概念として認識する形式はアプリオリに与えられており、純粋悟性概念(カテゴリー)と名づけられる。悟性の形式は、量、質、関係、様態に区分される。多様な概念が個人の中で総合される形式はアプリオリに与えられてあり、それは純粋統覚と名づけられる。

理性は、カテゴリーの適用する範囲を経験の外にまで拡張して、ある対象を認識することを我々に要求する。理性は、カテゴリー毎の最も根源的問いに対して相反する命題を成立させる。つまり、理性は根源的な問いに対して相互に矛盾する答えを推理することになる。ここれをアンチノミーと言う。根源的な問いとそのアンチノミーは四つある。世界の始まりと果てについての問い、物を構成している根源に対する問い、因果関係の根源に自由が存在するかどうかという問い、世界の原因としての必然的存在者の有無に対する問い、である。問いの答えとしては、前二者は両方とも誤りで、後の二者は両方とも正しいとしている。その理由は、我々が認識できるのは物自体ではなく現象であるからだという。

カントの認識論の理論的枠組みは画期的なもので相当説得性があると思う。しかし、認識対象が自然ではなくて人間の場合には、本書とは別の『実践理性批判』(善悪、倫理、道徳がテーマ)と『判断力批判』(美醜がテーマ)で語られていることを併せて理解する必要があるのだろう。但し、これらの著作も本書によって構築された理論的枠組みを基盤にしているので、本書を読めば人間を対象とした問いに対しても、理性の推理を使って個人的に相当追い詰めることも出来るかもしれない。

 本書で特に面白いと思ったところは、アンチノミーの箇所であった。世界の始まりやその果てはあるのか、物体はそれを構成している最小単位から成るのか、という問いに対しては、「物自体」は決して認識できないのだから、根源的な問いに対する最終的な答えはないことになる。つまり、宇宙論や素粒子論などには最終的な答えがないことになる。しかしこのことは、人間にとって、自然科学の探究の意味を減じるのではなくてその意味を変容させるのだろう。生成の因果を遡ると自由と言う究極原因があるのか、世界の存在原理としての至上なものはあるのか、という問いは、知ることのできない「物自体」に対する問いではなくて、世界の「現象」に対する問いであり、自由や至上なもの(象徴的には神)に対する問いであって、ここから人間を対象として話が進んでいくことが可能になるのだろうと思う。こうなると、後世の哲学書や社会科学書を読むには、カントの本書は必読なのだ。

2018年2月12日月曜日

2月12日(月) ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫

4年ほど前に仲間の文学系読書会で読んだ時の感想文。
芳純:良い香りです

旧ロシア社会の分裂した実存を背景にして描かれた分厚い人間・社会洞察がすごい本だ。一言で言えば、150年程前のロシア事情を背景に置くことによって、人間存在の本質を鋭く抉り出した父親殺し推理小説仕立ての社会派小説。内容が分厚い上に多様なので、読むたびに新しい発見があり、その度に深く考えさせる小説だ。因みに今回は一回目の通読。

日本で言えば幕末の頃、ヨーロッパ後進地域のロシアでは、近代の形式を取り入れつつも、その社会実体は農奴と貴族に分裂し、精神は伝統的キリスト教に支配されていた。そのことは実存の分裂と後の共産主義革命の芽を育んでいたのだろう。欲望、良心、自尊心、嫉妬、絶望、希望、等々人間存在の本質の様々な側面が、親子、村落や宗教の共同体、男女、世代等の様々な関係から抉り出され、それがカラマーゾフ的と言うロシア社会の本質も抉りだしている。

ソ連の崩壊はカラマーゾフ的精神の復活で、ヨーロッパ近代への運動の続きかも。すると、昨今の日本の状況が思い浮かべられてきたりして、やはり優れた古典は、あらぬ想像もかき立てるものだ。

2018年1月16日火曜日

1月16日(火) 政治思想・哲学のこと

 政治思想・哲学についてもう少しまともに考えてみたいと思うようになって数年経つ。近代のそれについては、とりあえず考えるための基礎となる古典(ホッブズからマルクスまで)は一応読んであるが、現代の政治思想についてはロールズが良さそうだと友人が言うのでそれを読んでみようと思っている。多分一年くらいはかかるだろう。
 そんなことを考えながら以前読んだ本のメモを見てたら、福田歓一先生の近代の政治思想』(岩波新書)の読書メモがあった。結構真面目に書いていて、30ページくらいあった。で、これは別ブログ爺~じの「本の要約・メモ」に掲載した。