自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年4月30日土曜日

4月28日(木)『マッキンダーの地政学』(曽村保信訳 原書房)

モッコウバラ
 ロシアによるウクライナの侵略という事態が発生した。まるで150年ほど前の出来事かと見紛う一方、今まであまり興味を引かれなかった地政学について少し興味が出てきて、元外交官で作家の佐藤優氏が地政学の原典と位置づけて推薦していた本書を読んでみたが、現代においても地理的条件が戦争を規定することを改めて考えさせられた。

本書の底本は「Halford J. Mackinder, Democratic Ideals and Reality, 1942」(元々の初出は第一次世界大戦末期頃)、日本語訳は『デモクラシーの理想と現実』(曽村保信訳 原書房 1985年)で出版されていた。本書は2008年に「デモクラシーの理想と現実」を副題にして名称を『マッキンダーの地政学』と変えて新装復刊されたもの。

古来人類は途切れることなく戦争をしてきた。何故だろうか?という哲学的問いがまず思い浮かぶが、人々の気持ちという観点からの答えは、「不安に基づく不信」による、という説明が私としては一番気に入っている。17世紀半ば頃にイギリス人のホッブズという哲学者が著した『リヴァイアサン』に述べられている。だから、戦争を回避する原理は信じ合える人々が安心して暮らせる世界を築くこと、となる。

2500年前のギリシャの哲学者プラトンは『国家』という著作で、人々の衣食住という必要性から生まれた国家同士が戦争をするようになるのは「人々が贅沢になって財貨を求める」からだと言っている。だから、戦争を回避するには、贅沢を求めない人々になるか、財貨がどの国も潤沢になるか、のどちらかとなる。

哲学的問いに対する答えはそれぞれもっともに思えるが、現実に戦争があり得る世界では、哲学的答えを現実にする努力と並行して、戦争への対処法は何かという別の問い方もあるだろう。その場合、そのような問いに答えるための、戦略的で合理的な学問があり得るのかもしれないが、地政学とはその種の学問なのだろうと思った。

まず著者は地理学の先生でもあるから、地政学においては、世界におけるその国が置かれている地理的条件が一番大事だと言っている。もちろん、古代から現代に至るまでの歴史において、人々が描くことができた実質的な世界は拡張され続けてきたから、時代が異なれば地理的条件も異なってくるが、地政学的法則は普遍的だという。

500年ほど前の大航海時代になって遂に、丸い地球の表面が、陸地と海が繋がった一つの世界であることを人々は体感した。その後、科学技術と産業革命とデモクラシー的な制度が創出され、それらに基づいた西欧近代国家も出現してきた。人々は自然を改変し社会の仕組みも創り上げてきたが、地政学の基本的法則は普遍的だと著者は述べているようだ。

著者の地政学理論の根拠は、古代エーゲ海文明から第一世界大戦までの粗方3000年くらいに及ぶ歴史の経験と、近代西洋文明が創り出した根本仮説、つまり世界には普遍的な法則が存在するという根本仮説となるだろう。

この地政学の法則が現代でも通用するように、もうすこし歴史を細かく区切って考察がされるが、500年ほど前の大航海時代から現代までを対象とした地政学においては、その法則が予想する結果の持つ意味合いが、デモクラシーの理想と現実との違いという観点からも浮かび上がってきているように思える。

キーワードは、ランドパワーとシーパワー、世界島、ハートランド。よくでてくる概念は、国家を構成する人々(~人、~族、~民族、等々)の区分け、組織力、社会管理、バランス、理想家、自由、デモクラシー、専制国家、など。

ランドパワーとシーパワーというキーワードによって、古代からの世界を通観すれば、その時々の世界における世界的戦争はこの二つ勢力の鬩ぎ合いであったことが示される。つまり、これは地政学上の普遍的法則だと。その二つのパワーの主な特徴は、古代の地中海世界においても、現代においても、シーパワーは交易による富と知恵の蓄積を元手に機動力に優れ、河川や海を利用して内陸に攻め入ったり、各地に拠点を作ってランドパワーを封じたりすることができること、ランドパワーはマンパワーと生産力に優れ、その力によってシーパワーが存在する条件をなしていること。

世界島というキーワードは、世界が次第に拡張してくると、シーパワーの人々にとって「世界」自体が「島」と捉えられてくることを表現している。つまり、拠点を作り島を包囲すれば支配が可能になるのだから、世界も支配も可能になると考えはじめるのだ、と。

ハートランド(心臓地帯)というキーワードは、世界を独占的に支配する可能性を秘めた地域を指す言葉で、シーパワーを支配したランドパワーの国家が存在する地域とも言える。だから、歴史が進み世界が拡大すればハートランドの地域も変遷する。著者は現代におけるハートランドの可能性として具体的に二つの地域を挙げている。一つは現在はロシアという国がある場所(北ハートランド)とアフリカ大陸の南半分(南ハートランド)。

関連して、第一次世界大戦の講和会議に出席中の戦勝国の政治家に対して守護天使が囁く言葉として著者が書いた印象的記述の引用⇒p177「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を支配する」。

当時(第一次世界大戦直後)の著者は、イギリスやアメリカや日本はシーパワーとしてフランスなどの西欧諸国の味方をして、ドイツを中心とするランドパワーに勝利したが、将来的にドイツがハートランドを制する可能性に言及しているように見えることは面白いが、著者が言いたいのは、今あるどこかの国がハートランドを制する、ではなく、ハートランドを制する者が世界を制する、ということに注意が必要だろう。




2022年3月5日土曜日

3月2日(水) 『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』 具志堅隆松 著 2012年

ピース
 本書を知る契機は 三月後半に沖縄旅行を計画しているときでした。沖縄では太平洋戦争末期の1945年3月末から3ヶ月ほどの間に日米両軍による地上戦が行われました。戦死者は日本の戦闘員は9万人程、米国の上陸戦闘員1万2000人、そして民間人が15万人以上といわれています。因みに、日本軍兵力は10万人(内2万人は臨時要員)、上陸した米軍兵力18万人、当時の沖縄県の人口は59万人位でした。

 民間人がこれほど多いのは、沖縄県に配属された日本軍の目的が、日本国民である沖縄の住民の命を守るためではなく、沖縄という場所と住民の労働力を、次に予想される日本本土への米軍の侵攻を止める手段として利用することであったからでしょう。

 日本軍は島の南部の首里に頑強な地下本部を設置し、各地に抗戦の陣地を築きました。そして足手まといになる住民達を島の最南部へと移住させ、圧倒的な物量をもって中央部西海岸に上陸してきた米軍と、絶望的な戦いを行いました。そして最後は、首里の本部を放棄し、最南部へと追い詰められて殆どの兵力を失って敗北しました。

 島の南部に移住させられた住民達は、はじめは自然洞窟内(ガマ)に待避していましたが、敗走してきた日本軍が移動してくるとガマは要塞陣地の代わりとなり、住民はガマの中で兵隊と混在したり、外に追い出されたりしました。その結果、戦闘に巻き込まれて多くの住民がそこでも亡くなりました。

 沖縄出身の著者は、沖縄戦死者の遺骨を1982年以来30年間掘り続けている。遺骨が特定されて家族の元に帰ることを願って。しかも、その殆どの時期は1人で。ボランティアの協力によって行われた遺骨収集事業が那覇市の共催で行われたのは2008年。その名も「平成20年度那覇市平和事業 那覇市真嘉比地区・市民参加型遺骨収集」。本書には著者が遺骨収集で経験してきた、リアルな死が物語る諸事実が記述されている。その内容はここには記載しないが、その代わり、冒頭の「読者の皆様へ」に書かれている文章の末尾を以下に転載します。

「若い人たちに伝えたいことがあります。これからの長い人生、力の強い者についていくのではなく、弱い者に寄り添い、ともに歩んでください。それが社会がよりよくするだけでなく、人生をきっと充実したものにしてくれるはずです。」2012年8月 具志堅隆松



2022年2月12日土曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014/2/19)殖産興業政策の展開(神山恒夫)

 このシリーズは、その前のシリーズ「日本通史」の続編・改訂版として刊行された学術的出版物です。15~19巻で取り扱う近現代史については、そういう事情もあってこの「日本歴史」の方で少し詳細な読書メモとして別ブログに連載する予定ですが滞ってます。なので、とりあえず通読の上簡略化してこちらの読書日誌に書くことにしました。

 本メモは、著者の学術的な記述を元に私が「多分こういうことなのだろう」と解釈して、簡単に纏めたものです。

殖産興業政策の展開(神山恒夫)

芳純

 明治維新直後から、帝国議会開設(18901129日に大日本帝国憲法が施行されると同時に開設)間の20年ほどの間、旧封建社会が崩壊し、統一通貨すらなかったなかで進められた殖産興業政策の展開が記述されている。

 その進展は急を要し、政府内における権力争いが盛んななか、政策は年・月単位で刻々と変化していく。でも、統一国家としてのこの政策を遂行しなければならないという意思は揺るがずに進められた。その結果、近代的産業基盤を支える諸企業や金融システム、勧業諸会は、基本的機能と能力を持つに至った。


はじめに

本稿では、明治前期(明治維新-帝国議会開設)の殖産興業政策について、財政・金融政策全体の動向に留意しながら検討する。

 一 直接的勧業政策の重視

 1 明治初期の経済政策

明治維新直後に政府は直ちに殖産興業政策を開始したが、その積極基調の政策は、通貨制度等の経済基盤が未整備であったために、外国貿易も国内経済も目論見通りには進まず挫折した。

1871年の廃藩置県に伴い大蔵大輔に就任した井上馨は、通貨の混乱を解消して長期的な経済発展の基盤を整備するため、消極基調の政策を採り、緊縮財政を展開したが、財政収支均衡による歳出削減が政府内の反発を招き18735月に辞職を余儀なくされて、これも挫折した。しかし、この間においても勧農事業を含む殖産興業の方針は政府中枢組織によって優先的に進められた。

 2 大隈財政と内務省

井上に代わり財政・金融政策を担当した大隈重信は、貿易収支改善には民間産業育成と交通機関や金融制度の整備が必要であると考え、積極財政と通貨増発により積極基調の政策を推進した。大隈財政によって、常用部予算は18731月期歳出額の4600万円から1875年度では6800万円に急増し、財源不足となった1876年度予算は減額されたが、6300万円であった。

187312月に設立した内務省は、大久保利通内務郷のもとで殖産興業政策を実施した。18741月に、大蔵省の一部業務を引き継ぎ勧業寮が設置されたが、勧農政策範囲にある農産加工品が中心であった。12月頃には、勧業寮は新たな事業拡大を図るとともに、勧農寮を新設して組織的な生産、技術の自主的向上を図った。18755月、大久保内務郷は内務省の優先すべき政策構想を提示し、勧業寮の事業拡大や運営内容適正化を図り、民業奨励重視の殖産興業政策が本格的に展開された。

こうして、1876年度までは常用部予算、工部省予算、内務省勧業寮関係予算も拡大して行ったが、1877年に入ると、地租課税率の減額と西南戦争の勃発によって財政事情が悪化し、内務省と工部省との重複解消や事業組み替え等に加え、常用部予算も大幅減額で4900万円となり、殖産興業政策の予算も大幅減となった。

このような状況のなかで、18783月に内務省は、官営開発への華士族の転用、地方への殖産興業資金貸与を提案し、更に殖産興業政策に関する内務省と工務省の予算増額の要求があったため、18783月に起業公債の発行が決まった。

 二 間接的勧業政策への転換

1 大久保没後の政策転換と「勧農要旨」 

西南戦争後も大隈は積極基調-積極財政の積極財政方針を継続したので1880年度の最終予算額は6400万円に達した。ところがインフレが激しくなったので積極基調・緊縮財政方針に変更したのだが、1881年度常用部当初予算額は69000万円であった。

大隈財政末期では、直接的勧業政策の弊害と間接的産業政策への展開が課題となっていた。それが問題として浮上してきた直接契機は、1879年に松方が、殖産興業政策の当事者である勧農局長として示した方針「勧農要旨」だった。

18785月に大久保が暗殺されると、伊藤博文が内務郷になり、18802月に松方が内務郷に品川弥二郎が勧農局長に就任する。こうして大久保内務郷時代に重視された直接的勧業政策の縮小が図られ、間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が推進された。

2 政策転換の実態

直接的勧業政策から間接的勧業政策への転換は、制度やその運営の不備、政府内の権力争い、財政難、治安維持の必要性、財政資金の民間貸し付けへの批判、等も絡み、個別にはさまざまな経過を辿った。特に、規模も大きく官業払い下げのさきがけとなる富岡製糸所払い下げが却下された件は典型例。

積極基調に基づく積極的な殖産興業資金の供給を維持するために金融機関の整備が模索された。商務局主導での前田正名による「帝国銀行」設立提案(18799月)横浜正金銀行による海外荷為替業務の開始(188010月)、正貨蓄積を重視する点で商務局と方針を異とする松方による「勧業銀行」設立提案など。

三 間接的勧業政策の定着

明治14年(1881)政変で松方が大蔵郷に就任すると、銀本位制を目指して消極基調・緊縮財政方針を取り、直接紙幣消却などで通貨収縮を図り、1882年に開業した日本銀行は銀行紙幣整理を担当したが兌換券発行はまだ実施できなかった。

緊縮財政は、紙幣整理と両立する範囲で運営され、軍拡・鉄道公債は認められたが、初期の収入分は国庫積立とされた。1885年に日銀の銀兌換券発行、翌年は政府紙幣の銀兌換が始まり、銀本位制が成立したことで、松方は積極基調・緊縮財政方針へ転換をした。このような中で、直接的勧業政策を縮小して間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が定着してきた。

勧業・補助金など産業育成に対する財政支出は交通・通信などの限定し、官業払い下げや農商務省による生産者・商人の組織を通しての財政資金提供ではなく、日銀を中心とする金融機関の整備で対応する方針を取った。しかし、当初は兌換券発行ができない日銀は資金難に陥り金融疎通の効果は上がらなかった。

兌換制度が定着して金融市場が安定すると企業が勃興して資本主義化が本格化してきた。民間資金需要については、民間銀行が株式を抵当に資金を貸し付けることで、日銀は公債抵当金融を中心に国内民間金融を拡大することで対応した。

松方は日銀や民間銀行は短期商業金融に専念させ、長期金融は特殊銀行を設立する構想を持っていたので、日銀の抵当金融拡大方針には批判的であった。しかし、日清戦争で銀行設立が伸ばされたため日銀のこのやり方を認めざるを得なかった。

18893月に準備金による海外荷為替が廃止されたため、同年10月に横浜正金銀行に低利資金を供給して正貨で返済させることで、日銀は正貨貯蓄の責を負うことになった。こうして日銀が金融政策の中心となり財政と金融の分離が進行した。

官業払い下げは、民への条件が厳しく進まなかった。それは、財政資金回収が重視されたからであったが18847月の鉱山払い下げ決定と同年10月の概則廃止を契機に、官業の払い下げが本格化した。

官業は鉄道・電信・兵器などの限定した分野に対して拡充する方針であったため、188512月の内閣制導入に伴い工部省は廃止され、交通・通信を担当する逓信省が設立され(鉄道は内閣直属)、払い下げを受けた政商は鉱工業に進出して財閥に発展する基盤を獲得した。

勧農事業に関する間接的勧業政策は以下のような進展を見せた。1881年に設置された農商務省は地方の府県勧業課などを中心にして勧業諸会の拡充に努めるほか、188411月には、同業者の自主的な合意形成を前提にした恒常的組織として物産改良などを進める同業組合の設立に着手した。しかし実際には、同業組織は監督する府県の裁量権が大きなものにならざるを得なかった実情があった。方向は同じとしても、政府関与の程度に差が生じた。それでも、勧業諸会・商人組織は進展し在来技術改良に効果を上げていた。

前田商務局長35歳)は、間接的勧業政策を進めるべく1885年1月に農商務省改革に着手しこれの手段として興業銀行設立も企画したが、12月に非職となった。直輸出奨励・在来産業育成を重視ていた前田は、正貨蓄積を優先する松方とは興業銀行設立の基本にある金融政策に齟齬があったのである。


2021年11月10日水曜日

11月10日(水) 上垣内憲一『暗殺・伊藤博文』犯人は安重根ではないかもしれない。

 何しろ証拠薄弱、疑問山積、動機はやまほどある・・・。
ハイビスカス

 このテーマで上垣内憲一さんの著書を読もうと思ったのは、知人から紹介されて先日はじめて読んでみた『雨森芳洲』(中公新書)の記述から、著者の緻密な誠実さが伝わってきたからであった。

 この事件は、単なる歴史の一コマではないのに、どうして事実を真剣に調べることに抵抗があるのだろうか?近現代史であればあるほど「政治的バイアス」があるからだろう。だが、噂ではなくまずは事実を大切にするという感性はとても大切だと思う、特に民主主義においては。

 伊藤博文の暗殺犯は一般に流布しているような安重根ではないかもしれない。なぜなら、驚くべきことに、採取可能であったはずの直接的証拠も信憑性のある間接的資料も残されてはいない。

 推定される動機は二つある。一つは当時の支配者であった日本国政府に対する被支配者であった朝鮮国の人びとによる抵抗である。安重根説はこちらに属するから、彼は韓国では英雄として位置づけられ、そう教えられているらしい。

 しかしもう一つの動機がある。それは、当時の東アジア情勢をめぐる、日本政界の最高実力者で朝鮮総督歴任者(だから暗殺対象者となった)である伊藤博文と日本陸軍との路線対立である。こちらの場合で可能性が高いのは、当時世界トップクラスの謀略工作の専門家で、日本の韓国憲兵隊長明石元二郎少将(過酷な朝鮮弾圧で知られている)の指揮の下でこの暗殺が遂行されたのではないかというのが著者の説である。

 明治維新以後の40年間ほどの間に、日本国の対朝鮮・清国・ロシアの外交政策は、日清・日露の二つの戦争を挟んで次第に軍事力に依存するようになっていった。維新の立役者が次第に亡くなっていくなか、元勲の一人であり当時の最高指導者であった伊藤博文は、当然、日本国の運営方針に深く関わっていた。政界NO2の山県有朋を最高指導者に頂く日本陸軍勢力は、伊藤暗殺の翌年に実行された韓国併合も、対ロシア政策の要としての満州地域支配の手段であると考えており、一貫して外交を重視する伊藤の存在はこの政策実行の大きな障害となっていた。

 アメリカのケネディ大統領暗殺に関する一連の事件も深い闇に閉ざされていると多くの人が感じている。伊藤博文暗殺事件の真相の究明は今となっては困難かもしれない。しかし、ここ20年くらいの日本の政治状況を見ると、この暗殺事件は、歴史が今の社会に鳴らす警鐘のように聞こえるのは考えすぎだろうか。国家における諸権力の都合による事実の隠蔽という意味で。

2021年10月23日土曜日

10月23日(土) 『超加速経済アフリカ』(椿進著 東洋経済)を読んでみた

パスカリ
 本書はアフリカ経済のイメージを根底から覆すものであった。アフリカの広さは中国やアメリカが何個も入るほど広大で、気候は避暑地(軽井沢とか)のように心地よく、平均年齢は二十歳で、経済は半世紀ほど前の日本である、とデータを提示して著者は言う。

避暑地みたいとは、人が沢山住んでいる大きな都市は高地にあるからといわれれば、確かに人類発祥の地アフリカだもんね、と思うし、平均年齢が二十歳なのは近年各種途上国援助で幼児死亡率が激減したからとなれば、なるほど、と思う。

しかし、経済が1970年位の日本と同じくらいの水準(ひとりあたりのGDP )だというのは、にわかには信じられないがデータはそうなっている。もちろん、50カ国以上もあるそうなアフリカの各国ごとに事情は異なるにしても、半世紀ほど前のアフリカと言えば、それまで植民地であった地域が第二次大戦後に形は独立したが統治は不十分で国家間の関係も不安定、内戦・飢餓・疫病等々で悲惨な状況にあって、政治・経済は世界に対してさしたる影響を及ぼしてはいないと、思い込んでいた節がある。日本が30年も経済停滞している間に、世界のグローバルな交流はアフリカの諸国家を現実に変身させつつある。

世界のグローバルな交流が劇的な変化を可能にした理由の一つは技術にあった。間を飛ばして、端的な例をあげれば、庶民が貨幣ではなくスマホで暮らしていることだろう。砂漠の遊牧民もスマホで購入し、海外で働いて得たお金を家族に送るのにもスマホですることができる、つまり銀行がなくても貨幣を持っていなくてもスマホさえあれば庶民は暮らせる。なぜそんなことができるのか、それはアフリカ社会には既得権がないから先進技術が実現できるのだと。

外国の投資については、中華人民共和国が一帯一路がらみのインフラ投資などでダントツ、欧米諸国も先端技術の実験場としても、将来をにらんでそこそこの投資を始めているが、日本は圧倒的に少ないとのこと。欧米は植民地であったアフリカとの繋がりで有利かもしれないが中国はそうではないし、以前の日本は相対的にはそれなりの投資をしていたらしいから、やはり失われたうん十年はここにも現れているのかもね。

2021年10月17日日曜日

元禄・享保時代の朱子学者「雨森芳洲」ってスゴい。その思想は、まるで古代ギリシャのイオニア自然哲学者達みたい

 『雨森芳洲 元禄享保の国際人』(上垣外憲一著、中公新書 1989年)

つるヒストリー

12月に歴史の会で対馬に行くので参考にと、植村さんが教えてくれた本。寛文8年(1668年)京都の医者の息子として生まれた雨森芳洲は、京都で儒学を学び、15歳で江戸に出て木下順庵門下生として朱子学を学んだ俊英で、21歳で対馬藩に仕えてから88歳で没するまで生涯そこで過ごした、いわば歴史に埋もれた一学者であったと言えるだろう。しかし、実は日本思想史上希有な普遍的思想家・哲学者あった。著者の上垣先生は比較文化・朝鮮交流史の専門家で、芳洲の生涯、基本思想、施策、エピソードを見事に紹介している。

芳洲は、長崎で唐語を学を学び、30歳で対馬藩朝鮮方佐役を拝命し、当時は殆ど無かったネイティブな朝鮮語を学び、1711年と1719年には朝鮮通信使に随行して江戸を往復して日朝外交上重要な役割を果たしていた。しかし、1721年53歳の時にいろいろあったようで朝鮮方佐役を辞任する。その後、30年以上にわたって著作や教育に従事し、82歳から和歌の勉強を志して古今和歌集を1000回読むことをきめて84歳頃にこれを達成した。

対馬ははるか昔から朝鮮と日本の間の関係をとりもってきた場所であり、江戸時代においては、長崎の中国・オランダ貿易、薩摩の琉球貿易と並んで、公認貿易の拠点であった。将軍家宣の時代に幕府に登用されて政策の要をになうこととなった著名な新井白石は11歳年長の同門であったが、雨森芳洲は、対馬藩に仕える語学堪能で便利な外交専門家として重用されるだけであった。しかし、芳洲は、江戸や長崎など日本の中だけで漢学等の学問を学ぶだけではなく、朝鮮外交という仕事を通じて朝鮮・中国などの異文化の人びととの政治・文化・経済的な交流をすることによって、人間・社会に対する深い考察を行った思想家であった。

文化の異なる人びとが、現実の要請に応じて行ってきた交流・交渉の経験が、国や民族を超えて人間一般に通用するような普遍性のある思想を生み出した、希有な日本人の事例であったと言えるのだろう。丁度古代ギリシャにおけるイオニア自然哲学者達のように。

2021年10月13日水曜日

プラトン『パイドロス』 恋することの本質はなんだろう?


サハラ
『パイドロス』は『饗宴』と並んでプラトンの恋愛論が展開されている代表的な作品と言われています。

ここでは、恋することの本質が表現されている箇所のいくつかを抜粋してみました。もう少し詳しくは、下記のブログを参照してね。

『われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。』

『この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。その証明は単なる才人には信じられないが、しかし真の知者には信じられるであろう。』

『この話全体が言おうとする結論はこうだ。―――この狂気こそは、全ての神がかりの状態の中で、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕うものがこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ、と。』

『翼もてるエロース そはまこと 死すべきものどもの呼べる名なり。されど不死なる神々は、これをプテロースとこそ呼べれ 翼(プテロン)おいしむるその力ゆえに』


爺~じの哲学系名著読解: パイドロス プラトン著 (藤沢令夫訳 岩波文庫) (gansekimind-dokkai.blogspot.com)