自己紹介

自分の写真
1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2022年12月22日木曜日

岩波講座 日本通史 第7巻 (通史 中世1 12~13世紀の日本)

アクロポリス・ロマンチカ
   『岩波講座 日本通史』シリーズの「古代」(第6巻まで)を別ブログ「爺~の日本史メモ」に掲載してから、早くも6年ほど経過してしまった。この第7巻からは「中世」がはじまる。つまり時代の「画期」の開始となる。

「はじめに」には次のように書いてある。「本書の課題は、十一世紀後半から十三世紀初めにかけて、約一世紀半の日本列島の歴史の記述である。この時代は日本史上でも指折りの激動期である。」

 時代の区分として使われているのは、○○時代と日本史の教科書に書いてある区切りだが、この区切りとなっている時期が時代の「画期」でもある。しかしそうすると、どの視点からの区分なのかとか、後から検証してみたら影響の程度の大きさが顕著と判断されうるのか、とかで結構沢山の「画期」がありそうで、「画期」の意味がボケてきてしまう。

 そこで、日本史上の画期を「日本列島に住んでいる人々の生活に激しい変化をもたらした歴史上の一時期」、と捉え、ついでにちょっと名前をつけてみたが、どんなもんだろうね。

  1. 「日本国の出現期」:中国大陸に出現した統一帝国の脅威に対抗しつつ、同時にその文明を学びつつ、一つの「国家」が日本列島に出現した、7C後半からの50年間程。この時代に形作られた天皇と新貴族の二重権力構造を持った律令国家は、その内実を100年程で失うが、その骨格・形式は19Cまで、ある意味では今日まで継続する
  2. 「武家社会出現期」:日本社会の統治者が、天皇と公家から武家になった、13C前半の50年間程、一般的概念としての中世社会へ移行する時期。もうすこし言えば、一般の人々がそれなりの合理性に従って社会を動かす時代へと参加し始めた時代。武士の時代の文字通り血生臭い側面はゴメンだが、暴力抜きなら極めて前向きな精神という意味でのアニマルスピリットは思い出して良いかもね
  3. 「戦(いくさ)の無い時代の出現」:日本列島中が戦に明け暮れた戦国時代が終了して、徳川家康の天下統一が確立した、16C末からの50年間程。江戸時代は明治政府によって貶められたから、今でも後遺症が残っているようだが、エコな生活などこれからの時代にマッチした知恵があるかもね
  4. 「西欧文明社会への転換期」:世界を支配した西欧文明国の脅威に対処し、彼等の諸力を学びつつ、近代国家の基盤を構築した、19C後半からの50年間程。明治時代を切り拓いた先人達に学ぶことは多い。しかし、国家の実権を把握した次世代の指導者は太平洋戦争を引き起こして同胞だけでも300万人の命を奪った。そのような愚かな行動を取った国家の指導者が何故出現したのか、またそのような人々に国家の統治を委ねることになったのは何故か、その理由は何だろうか?キーワードは個々人の「自由」と集団の「自律」だろう
  5. 「現代」:後世の人々が文明を維持できているとしたら、この現代をなんと表現するのだろうか?。
 上記の1.から2.までは600年程、2.から3.までは400年程、3.から4.までは300年程、と画期の間隔は短くなっている。すると5.「現代」は4.から100年程経過しているから、そろそろ画期かも、というより、日本列島の住んでいる人々の生活はすで大・小の激しい変化にさらされつつある、と私は実感している。

要約したメモを下記の別ブログに掲載したので、興味があれば参照してね

爺~じの日本史メモ

2022年12月4日日曜日

『哲学と宗教 全史』(出口直明著)ダイヤモンド社 Kindle版 コンパクトで簡潔に纏まっているので便利です

芳純

  本当に博学、かつビジネスの実践者でもあった著者による、東西世界に歴史上出現した宗教と哲学の全史が簡潔に語られている。その分野の研究者ではない私にとってはとても便利に、つまり「それってなに?」という問いに対して「それはこういうことだよ」と、ふつうよりもとても広い視点から少しだけ深く説明してくれている。

対象が哲学と宗教となると、この「少しだけ深く」凡人に説明できる人はあまりいないと思う。しかもノウ・ハウものとは異質なヒントを与えてくれそうな、歴史に鍛えられた「考え方」を覗かせてくれる本の企画、さすがビジネス書のダイヤモンド社です。ただし、「考え方」を「より深く」自分なりにでも理解するには本書に紹介されている古典・名著を自分で読んでみる必要があるでしょう。本書二は、そのような古典・名著が紹介されているので、その点も利用価値があると思います。

2022年10月13日木曜日

『イラク戦争と自衛隊派遣』(東洋経済 2004年4月 森本敏著)

あゆみ
 読んだ動機は2003年3月に始まったイラク戦争(米権の呼称では「イラクの自由作戦」)の意味を知りたかったからだ。本書を選んだのは出版社と著者に対する信頼です。信頼とは叙述に虚偽がないだろうということについてであって、本書の主張に対する賛同ではない。(⇒)内は私の補足。

米英とイラクとの戦闘はわずか21日で終了したが、2022年10月時点でもイラクは自律した統治がなされてはおらず崩壊国家ともいっても良い状況である(日本の外務省基準で危険度4~3の地域)。駐留米軍は2021年末には「戦闘終了宣言」をしたが、その後もISILなどによるテロが継続しているため米軍の撤退も完成されていない。

本書では、バクダット陥落までの米軍の作戦を第一期作戦と呼び、米軍占領統治以降を第二期作戦と呼んでいる。第一期作戦は実質21日で終わり、第二期作戦は本書の出版時点(2004年春)で継続中だが、占領政策の最中の作戦で戦う敵はテロリストと称される人々(イラク軍残党及びイスラム過激派アルカイダなど)となっている。

本書の記述から読み取れた、上記の読書目的から発せられた問いに対する結論は以下

  • 米国がイラク戦争を始めた理由は、2001年3月に米国で発生した同時多発テロが直接の契機となって、ブッシュ大統領が言う「テロとの戦い」という新しいタイプの戦争を行うことにしたことである。このタイプの戦争とは次のようなものとなるようだ
    • 戦争の相手は主権を持つ国家も対象とする
    • テロの予防という予防戦争という性格を持つ
    • 国連安保理決議など国際社会における合意は必要条件ではない
    • 「大量破棄兵器」を国際社会の承認なしに持つ国家は、予防戦争の対象となる
    • 「大量破棄兵器」とは核兵器、生物・化学兵器(⇒今のところ)
  • 従来の国際秩序の常識から判断すればイラク戦争の正当性は怪しいが、国際的テロ防止行動の必要性は世界が共有している
    • イラク戦争は国際法違反で国連のルール違反(安保理決議出来ず、ロシア、ドイツ、フランスは反対表明)
    • 「大量破棄兵器」は見つからなかった(実際保持していなかったらしい)、核兵器不保持・不製造の証拠は再三の開示要求にもかかわらず拒否(だからといってテロ予防戦争が正当化できるとは言えないだろう)
    • 国際テロ防止のための国際貢献に資する予防戦争というよりは、米国を標的にしたテロ再発防止の意味合いが強い
    • 第二期作戦状況は、米軍の戦闘作戦がむしろスンニ派イラク軍残党を国際テロ組織に追加することになるかもしれないことを予感させ、テロ予防戦争としての目的が果たされるかは疑問
  • イラク戦争の結果、国際秩序維持を主導する米国という構図は不変としも、米国一極支配ではなくなり、その内容も変質する。ポイントは米国との同盟の意味が変化すること
    • イラク戦争開始についての安保理決議は出来ず、米英連合が単独で開戦することになり、国際安全保障に対する国連の機能には限界があることが露呈した
    • 米国にとっての同盟国の基準は、冷戦期は共通の敵(ソ連)、ソ連崩壊後は民主主義・人権・自由・市場経済という共通の価値観(⇒価値観の違いが対立の根拠となるならば、それは歴史の逆向と思うが)
    • 同時多発テロ以後は、上記のような基準に次のような項目が付け加わった。すなわち「米国と共同でテロ防止行動を取るか否か」
    • つまり、テロ集団やテロ支援国、大量破壊兵器の開発・拡散に関わるネットワーク・国などに対して、米国とともに戦う国だけが米国の同盟国とみなされることになった
  • イラク戦争第二期作戦中、イラク戦争の戦後復興は、国連の事後承認的措置によって、米国以外の国家も参加している(経済、治安維持等々)
    • 経済援助は330億ドルで、その内世界銀行とIMFで55~92.5億ドル、米国が203億ドル、日本は米国に次いで国家単位ではダントツの50億ドル
    • 治安維持(大部分はテロ対策)に他国の軍隊が参加、日本は戦後初めて自衛隊がサマワに派遣された(急遽作られたイラク人道復興特別措置法に基づき)
  • 日本の安全保障は米国との同盟関係によって可能となる。そしてこの日米間の同盟関係の吟味が喫緊の課題
    • 背景には国際政治構造の歴史的転換がある。すなわち、冷戦終了、ソ連崩壊、そしてテロとの戦いという「新しい戦争」形態の出現
    • イラク人道復興特別措置法は、米国との同盟関係を重視する小泉総理大臣が急遽作ったもので、自衛隊が国連決議とは別に国際テロ防止戦争に米国同盟として参加可能とするものとなっているが、PKO協力法とは異質なものである
    • イラク戦争におけるイラク人道復興特別措置法の適用は、自衛隊がテロ予防戦争に参加する正当性の観点や、派遣される自衛隊員の安全等に関わる諸問題がある
    • 本書の帯には「日本の国際貢献はこのままでいいのか!」と記されている。つまり、変化した国際情勢に現実に対応するには、日本は米国と強固な同盟を組み、国際テロ予防戦争に軍隊を派遣することを含めた国際貢献をすることである、と
  • 著者の提案は、憲法改正が前提となるが「下限が見えないなら上限を実行できる能力を持ち、政治的に国際情勢に応じて必要且つ合理的な政策を選択をする」こと(P307~P308)
    • 上限とは「英国のように、軍事面で「全世界で全方位の作戦でともに戦う」こと
    • 下限とは、現時点では「自衛隊が現在の憲法の枠内で(⇒ 「イラク人道復興特別措置法」法の改良・追加版の下で)国際貢献をすることだが、それでは不十分だろう
    • 適切な下限とは、日米同盟を破綻させずに、軍事同盟以外の経済的・政治的な適切な支援政策をとることだが、それは現在明確ではない
  • (⇒雑感を少々)
    • 著者は1941年生まれ、防大卒自衛隊出身(⇒三等空佐=少佐)で外務省勤務等を経て民主党の野田政権時に民間出身初の防衛大臣を務めた軍事・外交の専門家なので、その主張には傾聴すべきところがある
    • 素人が現代の軍事戦略・技術上の知識を得るには大変役立った。米軍の軍事力は圧倒的(⇒多分現在も進歩を継続中)
    • しかし、国際テロ対策に関しては国際的な協力の枠組みが必要としても、軍事・政治・経済・文化政策の国際的対立ではなく、協調・合意・許容が効果的だろう
    • イラク戦争当時のように、「悪の枢軸国」などの標的を設定して、これを圧倒的軍事力でたたくというような戦略は、現在進行中のロシアのウクライナ侵攻と同様に古びた戦略であり、対国際テロ対策としても有効ではないだろう
    • 恐怖と不安が戦争を生み、生きて行けない絶望がテロを生むのが歴史の教訓だ。これらを取り除くのは、イソップ物語に出てくる北風(戦術)ではなく太陽(戦略)であり、現代の政治的状況に於いてはこれは最も効果的な戦略であろう
    • 日本の将来は、共通の価値観に立つ米国を巻き込んで、この戦略を戦術に、そして政策として率先実行出来るかどうかにかかっている。これこそが「日本の国際貢献」だと思う。

2022年9月29日木曜日

『学問と政治 日本学術会議会員任命拒否問題とは何か』(岩波新書 2022/6/23)

ジャスミーナ
 2020年10月、日本学術会議会員の任命が内閣総理大臣によって拒否されるという事態が発生した。本書は任命を拒否された6名(芦名定道、宇野重規、岡田正則、小沢隆一、加藤陽子、松宮孝明)による、このような事態に対する抗議の書である。

事態の本質は、行政による学問の支配という悪政が実施されたことにある。法的には憲法23条の学問の自由に抵触し、学術会議法の違反でもあり、この問題は、継続して追求すべきものである。

何故政府がこのようなことをし始めたのかについては、任命拒否の理由が開示されていないので、今のところこれ以上進んでいないが、科学技術の力を日本学術会議ではなくて政府の支配下に置こうとしているかららしい、とりわけ、軍事力に関わる科学技術に関しては。

因みにここで述べられている科学技術という言葉のうちの科学には自然科学だけではなく人文科学も含まれているのは政府も学術会議も同じ。しかし、科学技術という言葉の意味については政府と学術会議では異なっているようで、政府は科学に基づいた技術のことを指し、学術会議の方は科学と技術のことを指しているようだが、これは枝葉末節どころかことの本質に関わることだろう(多分殆どの人にとってはどちらでも良いのかもしれないが)。

もとより、日本学術会議会員の任命拒否問題は、近年(例えば第二次安倍内閣が成立した2012年12月26日以降ともいえるだろう)、における日本政治の急激な変質プロセスの中で発生したものであろう。だから今回の問題を深く理解するには、政治の変質に伴ってすでに顕在化している個々の事態(有事法制等々)の認識と、その事態が発生してくる本質的な理由を理解することが必要となる。

国家というものを構成する要素は、大きく言えば、国土・国民・経済力・軍事力・統治力だろう。そして近代民主主義国家は、なによりも国家は国民のためにあるのであって、その逆ではないことを目指し、そしてそれが可能な仕組みを求めてそのつど発生してくる未知の課題を解決しながら、人類史から見れば短い歴史を積み重ねて来た。その結果、国家の力においては他の形態の持つ国家(種々の独裁国家等)より強力となったのだが、そのさいの根本原理は自由(個々人にとって)と自律(共同体にとって)であろう。

そして、未知の課題を解決する知を生み出す根源は学問であって、今回の問題に即していえば、「科学に基づいた技術」ではなく「科学と技術」だろう。したがって、近代民主主義国家にとって、学問の自由と自律は必須の条件となる。本書の表題は、そのことを端的に表している。本書の出版記念シンポジウムが2022年9/6に岩波書店により開かれた。便利なもので、シンポジウムに参加していなくても後日岩波書店のyoutubeで観ることが出来ました。3時間もありますが、私にとっては様々な面で理解が深まりましたので、いつまで公開されているのか分かりませんが、下記にリンクを張っておきます。

シンポジウム学術会議任命拒否問題とは何か



2022年8月14日日曜日

エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』を読んでみた

パパメイアン
 本書は、文春文庫kindle版『第三次世界大戦はもう始まっている』(エマニュエル・トッド著2022/3/23)に収録されている。読んだ動機は、ロシアのウクライナ侵攻の理由と意味を知りたかったからだ。書かれている内容については別ブログ爺~じの本の要約に掲載しましたのでリンクをクリックして覗いてみてください(A4で14-5枚程度)。

 何故トッドなのかと言えば、かなり前に読書会仲間が、手軽な新書版でトッドを読みたいと提案があって、数冊通読したことが一つ。確か『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』『問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論』だったと思う。この三冊に加えて、2000年頃書かれた『帝国以後』(邦訳は藤原書店から2003年出版されている。)が沢山の人に読まれているらしい。いずれも時勢にマッチしていて、短くて比較的安価だからだろう。これらの本には何が書かれているかを知るだけなら、ネットで”書名”と”書評”で検索して、大学の先生などの解説を読めばあらかた分かる。さっきやって確かめてみたが、結構有効だった。

 だが、問題は、どうしてそう言えるのか?なのだが、それについては、多分『新ヨーロッパ大全Ⅰ、Ⅱ』をちゃんと読んだりしないと分からないのだろうが、大部なので積ん読になっている。もう一つは、この歴史家・人類学者・とくに人口動態学者であるトッドの『新ヨーロッパ大全』の日本語訳が出版された時に(1992年末頃か)、かの歴史人口学の大家である速水融先生がその本を片手に京大の研究室に入ってきて、結構興奮した面持ちで学生に紹介していた、と磯田道史さんが言っていたからだ。つまり、歴史をデータ(例えば人口構成の推移とか)に基づいて、合理的・客観的に理解する手法を提示ていたという評価があったからだろう。

 ところで、本書の重要な結論を端的いえば、次のようになる。もうすこし詳しく知りたければ、冒頭に記したリンクを参照してほしい。

 ロシアのウクライナ侵攻という事態を招いた原因はロシアではなくアメリカにある、というのだ。これは西側メディアが連日報道している内容とは真逆だ。更に、すでに第三次世界大戦が始まっている、という文言が表題にもなっている。ドットは、かってソ連の崩壊等を予言したことが知られているから、かなり衝撃的だ。つまり、ロシアにとっては防衛戦争であり、17世紀来のロシア圏内におけるローカルな問題であったウクライナ問題を、アメリカがグローバル化した世界対立へと導いたと。

 もうすこし言ってみると、ソ連が崩壊して東西冷戦が終結した事態を”勝利”としか理解できない奢った超大国アメリカが、世界に対して取り続けた「力による問題解決を見せつけることで自国の世界に対する統制力を維持しようとする方法(代表的には弱小国に対する軍事侵攻)」を、大国ロシアに対しても、グローバル化した世界になっている状況において、無思慮・無反省に取り続けた結果、世界を力による対決へと導いているのだと。そうなることは合理的な予測能力に欠けるリスキーな超大国アメリカにとっては、当然予想外だろう。予測できないことは原理的にリスキーなことなのだ。

 折角なので、ドッドの専門の家庭構造論で言えば、家父長的共同体家族が構成する権威主義的平等社会陣営と核家族的家族が構成する自由主義的個人社会陣営に分かれての世界大戦がはじまった、ということになる。これに関連した皮肉な話が述べられている。1970年代頃からアメリカの政策に強い影響を持ってきたネオコン陣営の中心に、ある「一族」・ファミリーが居て、彼等は今、過激な反ロシア政策を掲げている。つまり、家父長的共同体家族同士で敵対していることになってしまったのだ。

 そうトッドが考える理由は、先に挙げた四冊の著作から読み取れるトッドの思考の延長線上に、今回の侵攻についての具体的事実を重ねて導き出された判断にある。原因の追及が再発防止対策のためなら、どちらの見解が正しいのかについて、将来にわたって継続的に冷静に吟味しつづけねばならないだろう。

 ここで、直接に日本に対することなので、もう一つだけあげてみる。それは、自国だけではなく世界の安定のためには、日本は核武装すべきである、というトッドの提言だ。この提言は以前よりのもので、今年の5月号の文藝春秋にも掲載されいるそうだ。今回、核大国ロシアによるウクライナ侵攻によって、核を保有する大国が、従来の世界常識に反して、通常兵器による戦争を行う可能性があることが示されてしまったことで、地政学的で合理的な思考に基づいて考えれば、自国を偶然に委ねるつもりがなく核抑止力も有効なら、核の傘も核共有も幻想であり、選択肢は自国で核保有するのか、それともしないかのどちら以外にはない、と。

 


2022年8月2日火曜日

『母権論序説』(J.J.Bachofen)吉原達也訳

フレンチレース
  「母権制」「母権論」という考えは、1861年にバハオーヘンが著した『母権論』によって初めて提示されたそうだ。この考え方についての簡明な説明が、「世界大百科事典」に著名な民族学者、大林太良によってなされているので下記に引用した。

 彼(バハオーフェン)は、社会を進化論的に段階づけて、アフロディティー女神によって象徴される〈泥沼的生殖関係〉の時代、次にデメテル女神によって象徴される〈母権〉ないし〈女人政治制〉の時代、最後にアポロ神によって象徴される〈父権〉の時代が来たと論じた。この三段階のの図式はこのままの形では一般に受け入れられなかったが、父権制のまえには母権制があったという考えは、歴史家、民族学者に影響を及ぼした。またその神話研究はシンボリズム研究の先駆けとして評価されている。(大林太良「世界大百科事典」Japanknowledge personal版より)。

 吉原達也訳の『母権論序説』は、『母権論』(1992~1993年にかけて白水社から分厚そうな2冊訳本があるようです)の「序説」部分で、考え方の基盤を説明してある部分のようです。1815年生まれのバハオーフェンはダーウインより6年ほど年下でマルクスより3年ほど年上の同世代、結構影響を受けたそうなニーチェは30年ほど後の世代となります。バハオーフェンの社会進化論的考えの対象は人間の社会ですが、生物を対象にしにたダーウインの進化論の影響を受けているのかどうか、本書を読んだ限りでは分かりません。つまり、父権制が母権制より進化した社会なのだと著者が考えていたのかどうかは分かりません。

 面白いところは、著者の説が真実を言い当てているかどうかではなく、歴史の真実に近づく方法として「神話」が取り入れられていることです。つまりそこには社会法則としての普遍性が直観されうるのではないか、というアイデアです。本書は「序説」なので、個別の事例研究の記述はあまりありませんが、古代ギリシャの父権制以前の神話時代の社会の読み解きは興味深いものがあります。つまり、人間と物質との関係性および人間の心性を離れては、歴史的知識は内面的に完結しないと言うことです。方法論自体についての、著者の考えの一部を以下抜粋してみました。

 現代(19世紀中頃)の歴史研究は事件、人物、時代関係の吟味だけに限定して進められているにすぎず、また歴史時代と神話時代という区分を設定し、しかも神話時代を不当に拡張している。<中略>知識は、起源、継続、結果を把握して初めて、理解へと高まるのだ。そして、全ての発展の端緒は神話にある。われわれは、古代を今まで以上に深く探究しようとすれば、常に神話に立ち帰らざるを得ない。神話のうちにこそ起源が潜み、神話だけが起源を解き明かしうる・・・。


2022年7月24日日曜日

フッサールのイデーンをまた読み始めました

 今月から、NHKカルチャーで竹田青嗣先生がイデーンⅠ-Ⅰ解読講座を開設した。イデーンということと、12月には数年ぶりの合宿も企画されているというので、参加することにしたが、もったいないので自分が発表する分だけではなく、講座で取り上げられる箇所全部についてレジュメを作って、別ブログ「爺~じの「名著読解」」に逐次掲載することにした。どこまで続けられるか分からないけど。

芳純
今回の講座で取り上げられているところは下記(つまり続きがあるのでしょう)。

第一篇 本質と本質認識
第一章 事実と本質

第1節 自然的認識と経験
第2節 事実。事実と本質との不可分理性
第7節 事実学と本質学

第二章 自然主義的誤解

第22節 プラトン的実念論だとする非難。本質と概念
第23節 理念を見てとる働きの自発性。本質と虚構物
第24節 一切の諸原理の、原理

第二篇 現象学的基礎考察
第一章 自然的態度のなす定立と、その定立の遮断

第27節 自然的態度の世界。すなわち、私と私の環境世界
第28節 コギト。私の自然的環境世界と、理念的な環境諸世界
第30節 自然的態度のなす一般定立
第31節 自然的定立の徹底的変更。「遮断」、「括弧入れ」
第32節 超越論的現象学エポケー

第二章 意識と自然的現実

第34節 心理学的現象学的な主題の形で論ぜられる、意識の本質
第35節 強い意味における「作用」としてのコギト。非顕在性への変容
第36節 志向的体験。体験一般
第37節 コギトにおいて純粋自我が「何かの方に立ち向かっている」ということと、把握しながら注意するということ
第38節 作用に対して加えられる反省。内在的知覚と調節的知覚
第39節 意識と自然的現実。「素朴な」人間の見解
第41節 知覚の実的成素と、知覚の超越的客観
第42節 意識としての存在と、実在としての存在。直観様式の原理的相違
第43節 一つの原理的誤謬の、解明
第44節 超越的なものの単に現象的な存在、内在的なものの絶対的な存在
第45節 知覚されていない体験、知覚されていない実在
第46節 内在的知覚には疑わしさがないこと、超越的知覚には疑わしさがあること

『イデーンⅠ』あとがき(⇒これは本書冒頭に置かれている)





2022年6月4日土曜日

『マハン 海上権力史論』北村謙一訳 原書房

パパメイアン
  本書は1890年に著された海軍戦略の最重要文献と言われている名著で、「陸の地政学」と言われているマッキンダーの『デモクラシーの理想と現実』(1919年)と並び称せられているそうです。出口治明さんによれば、このマハン(アメリカ海軍軍人、歴史家)の地政学の考え方を知るには第1章(シーパワーの要素)だけ読めばいいと書いてあったので、緒論と第1章だけを読んでみた。尚原書は14章あるが、本訳書は抄訳で全8章の構成となっている。そのうちの緒論と1章と8章(原書では14章、1778年の海洋戦争の評論)が全訳。第2章~14章は、17世紀から18世紀(200年間程)に起こったヨーロッパにおける海戦の歴史で、目次の項目だけみても、随分沢山の海戦をしたことが伺える。その歴史から教訓つまり一般原則あるいは海の地政学といわれるものが導かれているようだ。

 ということで、その一般原則から二点だけ書いてみた。一つは、当時の主力であったであろう帆船から新技術による蒸気船へと変化するだろうことによって戦術が変わってくるが、その際に参考になる歴史的教訓があるという。それは、蒸気船は昔のガレー船との同じく風に左右されないことだ、と。確かにこれは歴史的に似た条件があれば、どんなに古い教訓であっても参考になるという意味で普遍性があるだろう。もう一つはかなり説得性がある。つまり、海軍は商船保護のために存在していたという教訓だ。つまり、具体的には植民地獲得と経営の決め手になったのは海軍だという教訓である。従ってシーレーンが地政学上きわめて重要であることが導かれる。その点に関して、大体19世紀半ばまでの300年間にわたる、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなどの違いが述べれられている。もちろん当時は最後にイギリスが覇権を握ったのだが、要するに国民性だと。つけくわえれば、冒険心はあっても価値を収奪するだけの国は滅び、価値を自ら創り出す国が強いのだと。これは国家の戦略に関わることで、兵隊の数がものを言う陸軍とは違って、海軍においては大きく影響したはずであろう。







2022年5月19日木曜日

5月18日(水) 『教養としての地政学』出口治明著 日経BP

フレンチレース
 本書は、著者の博学と経済人としてのリアルな経験をベースにした、とても面白い語り下ろしの本です。世界史上に出現してきた多くの国々の興亡、またその理由がとても簡潔に解説されているので、楽しく読むことができます。もっとも時代が下って現代になってくると、楽しいだけでなく、生き延びる知恵を持たねば、と緊張感が漂ってきますが、過去の地政学的知見がどのくらい有効なのかは、変化が早くて複雑かつ危うい現代に対しては、よく吟味することが必要でしょう。

「はじめに」で著者は地政学について次のように語っています。「地政学とは、本来、天下国家を論じる学問ではなく、人間の生きる知恵と関係するような学問だと僕は考えてます。そのあたりのことを中心に話したいと思います。」それには理由がありそうです。つまり、かっての地政学がドイツや日本で悪い意味で流行っていたことがあり、世界情勢が不安定になってきている現代において地政学の再流行の兆しが見えるからでしょう。

地政学の古典には、マハンの『海上権力史論』(海の地政学)とマッキンダーの『デモクラシーの理想と現実』(陸の地政学)があるので、この二つ著作の概要も語られています。著者は地政学のことを次のように説明しています。「ある国や国民は、地理的なことや隣国関係をも含めて、どのような環境に住んでいるのか。その場所で平和に生きるために、なすべきことは何か。どんな知恵が必要か。そのようなことを考えること学問です。」また、地政学が存在する前提を「国は引っ越しできない」、という短い言葉で説明しています。

世界の国の興亡史各論における、その国々が置かれている自然環境上(地理上)の規定に加えて、「生き延びる知恵、あるいは知恵のなさ」の歴史的事実や因果関係について簡潔な説明がなされていいます。世界史や人文地理の分野における説明には、地名、地理上の位置、事実の時間関係、人名、血統図、などが沢山出てくるので理解しにくいのですが、それをあまり感じさせない程巧みな説明です(⇒説明の妥当性は別の興味の問題としてあります)。

それらの個別の事実や事象から一般性を抽出してみると、いくつかの基本的な事柄が浮かび上がってきました。その国が現実のおかれている地理上の特徴以外に、資源や気候などの自然条件の他、血縁、マンパワー、合理的思考、宗教、文化、偶然、などです。これらの項目は独立でもなく、それらの組み合わせから生じる諸事態、例えば経済力、軍事力などを挙げれば沢山あるでしょう。

著者の挙げているキーワードの一つに、「サンドイッチの具」というのがあります。これは、敵対する国によって地理的に挟まれた状態になると戦いで負けてしまうという意味で、陸の地政学に特に当てはまるとのことです。つまり、サンドイッチの具にならないように、敵味方を選定して謀略を企てたり戦争をしかけたり、あるいは婚姻関係を結んだりする知恵を絞るのが地政学だと。海の地政学では、やはり交易です。ローマの賢人キケロは「戦争は要するにお金」だと言ったとか。大航海時代以降は新しい市場が開拓されて、いわゆる地球規模でのシーレーンが重要となり、その確保戦争に勝利したスペインは大国になりましたが、暗愚な君主が続いて衰退したそうです。

いろいろな面白いエピソードが語られています。例えば、大した戦争もせず、謀略も巡らさず、ただ結婚した相手が死んだり病気になったりしたことで、わずか三代でオーストリアやスペイン及び南アメリカやメキシコまでを支配するに至ったハプスブルグ家には「ハプスブルグよ、汝は結婚せよ」という言葉が残されているそうです。ハプスブルグ家の暗愚な君主達は結局スペインを衰退させますが、血縁・血統・出自が地政学上のキーワードの一つになっていた証拠でもあるのでしょう。つまり、人々が納得する統治原理だったからでしょう。専制国家の時代には国家の統治に関与する人々がきわめて少数なために、特に大きな要素だったのでしょう。

合理的思考が地政学としても大切な要素であるのは、思い込みではなくて現実の事実や事象を基にして考えるからなのでしょう。要するに世界は妄想でも来世でもなく現実なのですから(⇒国家は幻想である、と言った人もいますが)。宗教やイデオロギーに囚われずに交易による利益で覇権を獲得した諸都市国家から現代の国民国家にいたるまで、これは通用しそうです。

国家政略についてのエピソードも面白いです。プロイセンの宰相ビスマルクなどの優れた知略ものエピソードも面白いのですが、専制君主の信じられないほどの暗愚な行為についてのエピソードはそれにまして面白そうですね。暗愚な人が国家の指導者ではなくて普通人であるという事態は一般的なのですから、彼等が指導者になってしまうことが地政学的には大問題なのだろうと思いました。


2022年5月13日金曜日

5月12日(木) ロシア・ソヴィエト哲学史(ルネ・ザパタ著、原田佳彦訳)

夢香
 動機は、ロシアのウクライナ侵攻。ヨーロッパと陸続きというより、ヨーロッパの中では後進地域であるとはいえヨーロッパの一部であるロシアには、西欧近代の思想や制度の原理を生み出した西欧哲学思想が全く根付いていないのかもしれない、とフト思った。もちろん、ロシアについての理解が不足しているからなのだが、この無知を埋めるための基本的分野がここかもしれないと。

ということで、ネットで検索して選んでみたのが本書なのだが、面白いことに、本書の著者がどのような人なのかは、訳者も分からないと書いてある。それでも、白水社文庫クセジュに収録され、JapanKnowledgeには「文庫クセジュベストセレクション」に選定されて閲覧対象となっている。20世紀初頭のロシア革命によって誕生したソヴィエト連邦が約70年後に崩壊するまでの哲学史の部分は、今はあまり興味がないから読んでいない。

まず、本書の「はじめに」を読んでみると、あらかたの状況が見えてくる。その冒頭に「ルネッサンス期のヨーロッパに存在していたような哲学は、ロシアではずっと遅れ、18世紀になって、エカテリーナ二世治下、ロシア文化の西欧化という歴史的文脈のなかに、その姿を現すのである。」と書かれ、最後の方には「ロシアの思想家たちが文学と文芸批判とに付与した第一級の重要性を強調しておこう。それは、文学言語の形成と文学の隆盛と哲学の誕生が、ロシア民族意識の出現という、一層広範な歴史的文脈の中で同時的に起こった過程だという事実に起因する。」と書かれている。

読書日誌なので、内容の紹介は印象に残った箇所の一部分だけの抜粋だけで勘弁してもらうことにしよう(ついでに、これからも)。と言うことで以下。
・11世紀から1459年(ロシア正教会が東方正教会のなかで独立を宣言し、モスクワ大公の支配下となった)にかけて、ロシア的霊性はその特徴的性格を持つようになった。
・こうして(⇒東ローマ帝国の滅亡とキリスト教正教帝国というローマ帝国の滅亡)、モスクワ公国を中核とするロシアは(⇒第三のローマとして)、15世紀からすでにこの二重の使命を与えられることになる。
・1654年、ウクライナがロシア帝国に併合された後、キエフはロシアにおける西欧哲学思想普及の中心地になっていく。
・ピョートル大帝(在位1689-1725)は近代国家の基礎を築き、ロシア文化を極端なまでの西欧化に曝した。
・ロシア哲学の開花=成熟に果たしたエカテリーナ二世(在位1761-96)の役割は、きわめて重要なものである。彼女はヨーロッパ---とりわけフランス---の哲学者たちの著作と思想の普及を奨励し[・・・]。これ(⇒ブガチョフの反乱1772-75)以降、カテリーナは貴族階級の権利を強化することに没頭する。女帝は熱狂的なヴォルテール主義を棄て、世界主義と西欧の腐敗堕落に対して、ロシアの過去の光栄をたたえる偏狭な民族主義に結びつく。
・19世紀はナポレオン戦争の終結とともに始まる。ドイツ戦役とフランス戦役が、若き貴族たちにとって真の研修旅行になったのである。遅れたロシアが、孤立し、いまなお農奴制の軛の下にあるロシアに対して、輝きに満ちた文明の明示のように見えるヨーロッパが、ロシアの若き貴族達の前にそびえ立っている。
・「我がロシアの現状を見るに、われわれに対しては、人類の普遍的法則が無効とされているかのようである。世界に孤立したわれわれは、世界に何も与えず、世界から何も得てこなかった。」「存在するのはただ、実際に思索と霊魂への関心によって導かれるようなキリスト教社会(⇒ロシア正教)だけである」(⇒どちらも、ピョートル・チャダーエフ著『哲学書簡』1829年)。
・(⇒その後、哲学・思想界は大きくはスラブ派と西欧派などに分かれて進展するも、ニコライ一世治世末期に弾圧され、死刑、シベリア流刑、または沈黙、の暗黒の7年(1848-55)を迎える。ドストエフスキーは死刑宣告をされるが減免されシベリア流刑となる)
・長かったクリミア戦争(1853-56)でロシア軍が敗北した結果、専制体制は窮地を脱するため譲歩し、農奴制を廃止する(1861年2月19日の農奴解放令)が、しかし、諸改革の策定とその実施に際して、この国のエリート達が実際にそこに参画することを保障するいかなる機構も設置されなかった。
・(⇒その後、思想界は自由主義、進歩主義、虚無主義等も加わっての分裂状態に陥る。同時期、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、等の文豪は多大な影響を及ぼす。1870-80年代になって人民主義が出てきて、マルクス、エンゲルスと繋がるが、ロシアにおけるマルクス主義は一層教条的で普及の歴史は長く複雑であった)

ロマノフ王朝という専制国家の必要性においての西欧化であるならば、弊害が生じれば暴力によって禁止されることは、もちろん哲学も例外ではない。ロシアという地域は、ヨーロッパの一部として200年以上も西欧化の努力を継続した。しかし、結局はヨーロッパ文明の礎であるルネッサンスを経験しないままに、20世紀に入るやいなや社会主義国家ソヴィエト連邦になって、さらに80年近く近代文明・文化から取り残されたのではないだろうか。そして、ソ連崩壊後の今日、「ロシア的霊性」の顕在化は何をもたらすのだろうか。





2022年4月30日土曜日

4月28日(木)『マッキンダーの地政学』(曽村保信訳 原書房)

モッコウバラ
 ロシアによるウクライナの侵略という事態が発生した。まるで150年ほど前の出来事かと見紛う一方、今まであまり興味を引かれなかった地政学について少し興味が出てきて、元外交官で作家の佐藤優氏が地政学の原典と位置づけて推薦していた本書を読んでみたが、現代においても地理的条件が戦争を規定することを改めて考えさせられた。

本書の底本は「Halford J. Mackinder, Democratic Ideals and Reality, 1942」(元々の初出は第一次世界大戦末期頃)、日本語訳は『デモクラシーの理想と現実』(曽村保信訳 原書房 1985年)で出版されていた。本書は2008年に「デモクラシーの理想と現実」を副題にして名称を『マッキンダーの地政学』と変えて新装復刊されたもの。

古来人類は途切れることなく戦争をしてきた。何故だろうか?という哲学的問いがまず思い浮かぶが、人々の気持ちという観点からの答えは、「不安に基づく不信」による、という説明が私としては一番気に入っている。17世紀半ば頃にイギリス人のホッブズという哲学者が著した『リヴァイアサン』に述べられている。だから、戦争を回避する原理は信じ合える人々が安心して暮らせる世界を築くこと、となる。

2500年前のギリシャの哲学者プラトンは『国家』という著作で、人々の衣食住という必要性から生まれた国家同士が戦争をするようになるのは「人々が贅沢になって財貨を求める」からだと言っている。だから、戦争を回避するには、贅沢を求めない人々になるか、財貨がどの国も潤沢になるか、のどちらかとなる。

哲学的問いに対する答えはそれぞれもっともに思えるが、現実に戦争があり得る世界では、哲学的答えを現実にする努力と並行して、戦争への対処法は何かという別の問い方もあるだろう。その場合、そのような問いに答えるための、戦略的で合理的な学問があり得るのかもしれないが、地政学とはその種の学問なのだろうと思った。

まず著者は地理学の先生でもあるから、地政学においては、世界におけるその国が置かれている地理的条件が一番大事だと言っている。もちろん、古代から現代に至るまでの歴史において、人々が描くことができた実質的な世界は拡張され続けてきたから、時代が異なれば地理的条件も異なってくるが、地政学的法則は普遍的だという。

500年ほど前の大航海時代になって遂に、丸い地球の表面が、陸地と海が繋がった一つの世界であることを人々は体感した。その後、科学技術と産業革命とデモクラシー的な制度が創出され、それらに基づいた西欧近代国家も出現してきた。人々は自然を改変し社会の仕組みも創り上げてきたが、地政学の基本的法則は普遍的だと著者は述べているようだ。

著者の地政学理論の根拠は、古代エーゲ海文明から第一世界大戦までの粗方3000年くらいに及ぶ歴史の経験と、近代西洋文明が創り出した根本仮説、つまり世界には普遍的な法則が存在するという根本仮説となるだろう。

この地政学の法則が現代でも通用するように、もうすこし歴史を細かく区切って考察がされるが、500年ほど前の大航海時代から現代までを対象とした地政学においては、その法則が予想する結果の持つ意味合いが、デモクラシーの理想と現実との違いという観点からも浮かび上がってきているように思える。

キーワードは、ランドパワーとシーパワー、世界島、ハートランド。よくでてくる概念は、国家を構成する人々(~人、~族、~民族、等々)の区分け、組織力、社会管理、バランス、理想家、自由、デモクラシー、専制国家、など。

ランドパワーとシーパワーというキーワードによって、古代からの世界を通観すれば、その時々の世界における世界的戦争はこの二つ勢力の鬩ぎ合いであったことが示される。つまり、これは地政学上の普遍的法則だと。その二つのパワーの主な特徴は、古代の地中海世界においても、現代においても、シーパワーは交易による富と知恵の蓄積を元手に機動力に優れ、河川や海を利用して内陸に攻め入ったり、各地に拠点を作ってランドパワーを封じたりすることができること、ランドパワーはマンパワーと生産力に優れ、その力によってシーパワーが存在する条件をなしていること。

世界島というキーワードは、世界が次第に拡張してくると、シーパワーの人々にとって「世界」自体が「島」と捉えられてくることを表現している。つまり、拠点を作り島を包囲すれば支配が可能になるのだから、世界も支配も可能になると考えはじめるのだ、と。

ハートランド(心臓地帯)というキーワードは、世界を独占的に支配する可能性を秘めた地域を指す言葉で、シーパワーを支配したランドパワーの国家が存在する地域とも言える。だから、歴史が進み世界が拡大すればハートランドの地域も変遷する。著者は現代におけるハートランドの可能性として具体的に二つの地域を挙げている。一つは現在はロシアという国がある場所(北ハートランド)とアフリカ大陸の南半分(南ハートランド)。

関連して、第一次世界大戦の講和会議に出席中の戦勝国の政治家に対して守護天使が囁く言葉として著者が書いた印象的記述の引用⇒p177「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を支配する」。

当時(第一次世界大戦直後)の著者は、イギリスやアメリカや日本はシーパワーとしてフランスなどの西欧諸国の味方をして、ドイツを中心とするランドパワーに勝利したが、将来的にドイツがハートランドを制する可能性に言及しているように見えることは面白いが、著者が言いたいのは、今あるどこかの国がハートランドを制する、ではなく、ハートランドを制する者が世界を制する、ということに注意が必要だろう。




2022年3月5日土曜日

3月2日(水) 『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』 具志堅隆松 著 2012年

ピース
 本書を知る契機は 三月後半に沖縄旅行を計画しているときでした。沖縄では太平洋戦争末期の1945年3月末から3ヶ月ほどの間に日米両軍による地上戦が行われました。戦死者は日本の戦闘員は9万人程、米国の上陸戦闘員1万2000人、そして民間人が15万人以上といわれています。因みに、日本軍兵力は10万人(内2万人は臨時要員)、上陸した米軍兵力18万人、当時の沖縄県の人口は59万人位でした。

 民間人がこれほど多いのは、沖縄県に配属された日本軍の目的が、日本国民である沖縄の住民の命を守るためではなく、沖縄という場所と住民の労働力を、次に予想される日本本土への米軍の侵攻を止める手段として利用することであったからでしょう。

 日本軍は島の南部の首里に頑強な地下本部を設置し、各地に抗戦の陣地を築きました。そして足手まといになる住民達を島の最南部へと移住させ、圧倒的な物量をもって中央部西海岸に上陸してきた米軍と、絶望的な戦いを行いました。そして最後は、首里の本部を放棄し、最南部へと追い詰められて殆どの兵力を失って敗北しました。

 島の南部に移住させられた住民達は、はじめは自然洞窟内(ガマ)に待避していましたが、敗走してきた日本軍が移動してくるとガマは要塞陣地の代わりとなり、住民はガマの中で兵隊と混在したり、外に追い出されたりしました。その結果、戦闘に巻き込まれて多くの住民がそこでも亡くなりました。

 沖縄出身の著者は、沖縄戦死者の遺骨を1982年以来30年間掘り続けている。遺骨が特定されて家族の元に帰ることを願って。しかも、その殆どの時期は1人で。ボランティアの協力によって行われた遺骨収集事業が那覇市の共催で行われたのは2008年。その名も「平成20年度那覇市平和事業 那覇市真嘉比地区・市民参加型遺骨収集」。本書には著者が遺骨収集で経験してきた、リアルな死が物語る諸事実が記述されている。その内容はここには記載しないが、その代わり、冒頭の「読者の皆様へ」に書かれている文章の末尾を以下に転載します。

「若い人たちに伝えたいことがあります。これからの長い人生、力の強い者についていくのではなく、弱い者に寄り添い、ともに歩んでください。それが社会がよりよくするだけでなく、人生をきっと充実したものにしてくれるはずです。」2012年8月 具志堅隆松



2022年2月12日土曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014/2/19)殖産興業政策の展開(神山恒夫)

 このシリーズは、その前のシリーズ「日本通史」の続編・改訂版として刊行された学術的出版物です。15~19巻で取り扱う近現代史については、そういう事情もあってこの「日本歴史」の方で少し詳細な読書メモとして別ブログに連載する予定ですが滞ってます。なので、とりあえず通読の上簡略化してこちらの読書日誌に書くことにしました。

 本メモは、著者の学術的な記述を元に私が「多分こういうことなのだろう」と解釈して、簡単に纏めたものです。

殖産興業政策の展開(神山恒夫)

芳純

 明治維新直後から、帝国議会開設(18901129日に大日本帝国憲法が施行されると同時に開設)間の20年ほどの間、旧封建社会が崩壊し、統一通貨すらなかったなかで進められた殖産興業政策の展開が記述されている。

 その進展は急を要し、政府内における権力争いが盛んななか、政策は年・月単位で刻々と変化していく。でも、統一国家としてのこの政策を遂行しなければならないという意思は揺るがずに進められた。その結果、近代的産業基盤を支える諸企業や金融システム、勧業諸会は、基本的機能と能力を持つに至った。


はじめに

本稿では、明治前期(明治維新-帝国議会開設)の殖産興業政策について、財政・金融政策全体の動向に留意しながら検討する。

 一 直接的勧業政策の重視

 1 明治初期の経済政策

明治維新直後に政府は直ちに殖産興業政策を開始したが、その積極基調の政策は、通貨制度等の経済基盤が未整備であったために、外国貿易も国内経済も目論見通りには進まず挫折した。

1871年の廃藩置県に伴い大蔵大輔に就任した井上馨は、通貨の混乱を解消して長期的な経済発展の基盤を整備するため、消極基調の政策を採り、緊縮財政を展開したが、財政収支均衡による歳出削減が政府内の反発を招き18735月に辞職を余儀なくされて、これも挫折した。しかし、この間においても勧農事業を含む殖産興業の方針は政府中枢組織によって優先的に進められた。

 2 大隈財政と内務省

井上に代わり財政・金融政策を担当した大隈重信は、貿易収支改善には民間産業育成と交通機関や金融制度の整備が必要であると考え、積極財政と通貨増発により積極基調の政策を推進した。大隈財政によって、常用部予算は18731月期歳出額の4600万円から1875年度では6800万円に急増し、財源不足となった1876年度予算は減額されたが、6300万円であった。

187312月に設立した内務省は、大久保利通内務郷のもとで殖産興業政策を実施した。18741月に、大蔵省の一部業務を引き継ぎ勧業寮が設置されたが、勧農政策範囲にある農産加工品が中心であった。12月頃には、勧業寮は新たな事業拡大を図るとともに、勧農寮を新設して組織的な生産、技術の自主的向上を図った。18755月、大久保内務郷は内務省の優先すべき政策構想を提示し、勧業寮の事業拡大や運営内容適正化を図り、民業奨励重視の殖産興業政策が本格的に展開された。

こうして、1876年度までは常用部予算、工部省予算、内務省勧業寮関係予算も拡大して行ったが、1877年に入ると、地租課税率の減額と西南戦争の勃発によって財政事情が悪化し、内務省と工部省との重複解消や事業組み替え等に加え、常用部予算も大幅減額で4900万円となり、殖産興業政策の予算も大幅減となった。

このような状況のなかで、18783月に内務省は、官営開発への華士族の転用、地方への殖産興業資金貸与を提案し、更に殖産興業政策に関する内務省と工務省の予算増額の要求があったため、18783月に起業公債の発行が決まった。

 二 間接的勧業政策への転換

1 大久保没後の政策転換と「勧農要旨」 

西南戦争後も大隈は積極基調-積極財政の積極財政方針を継続したので1880年度の最終予算額は6400万円に達した。ところがインフレが激しくなったので積極基調・緊縮財政方針に変更したのだが、1881年度常用部当初予算額は69000万円であった。

大隈財政末期では、直接的勧業政策の弊害と間接的産業政策への展開が課題となっていた。それが問題として浮上してきた直接契機は、1879年に松方が、殖産興業政策の当事者である勧農局長として示した方針「勧農要旨」だった。

18785月に大久保が暗殺されると、伊藤博文が内務郷になり、18802月に松方が内務郷に品川弥二郎が勧農局長に就任する。こうして大久保内務郷時代に重視された直接的勧業政策の縮小が図られ、間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が推進された。

2 政策転換の実態

直接的勧業政策から間接的勧業政策への転換は、制度やその運営の不備、政府内の権力争い、財政難、治安維持の必要性、財政資金の民間貸し付けへの批判、等も絡み、個別にはさまざまな経過を辿った。特に、規模も大きく官業払い下げのさきがけとなる富岡製糸所払い下げが却下された件は典型例。

積極基調に基づく積極的な殖産興業資金の供給を維持するために金融機関の整備が模索された。商務局主導での前田正名による「帝国銀行」設立提案(18799月)横浜正金銀行による海外荷為替業務の開始(188010月)、正貨蓄積を重視する点で商務局と方針を異とする松方による「勧業銀行」設立提案など。

三 間接的勧業政策の定着

明治14年(1881)政変で松方が大蔵郷に就任すると、銀本位制を目指して消極基調・緊縮財政方針を取り、直接紙幣消却などで通貨収縮を図り、1882年に開業した日本銀行は銀行紙幣整理を担当したが兌換券発行はまだ実施できなかった。

緊縮財政は、紙幣整理と両立する範囲で運営され、軍拡・鉄道公債は認められたが、初期の収入分は国庫積立とされた。1885年に日銀の銀兌換券発行、翌年は政府紙幣の銀兌換が始まり、銀本位制が成立したことで、松方は積極基調・緊縮財政方針へ転換をした。このような中で、直接的勧業政策を縮小して間接的勧業政策に重点を置く殖産興業政策が定着してきた。

勧業・補助金など産業育成に対する財政支出は交通・通信などの限定し、官業払い下げや農商務省による生産者・商人の組織を通しての財政資金提供ではなく、日銀を中心とする金融機関の整備で対応する方針を取った。しかし、当初は兌換券発行ができない日銀は資金難に陥り金融疎通の効果は上がらなかった。

兌換制度が定着して金融市場が安定すると企業が勃興して資本主義化が本格化してきた。民間資金需要については、民間銀行が株式を抵当に資金を貸し付けることで、日銀は公債抵当金融を中心に国内民間金融を拡大することで対応した。

松方は日銀や民間銀行は短期商業金融に専念させ、長期金融は特殊銀行を設立する構想を持っていたので、日銀の抵当金融拡大方針には批判的であった。しかし、日清戦争で銀行設立が伸ばされたため日銀のこのやり方を認めざるを得なかった。

18893月に準備金による海外荷為替が廃止されたため、同年10月に横浜正金銀行に低利資金を供給して正貨で返済させることで、日銀は正貨貯蓄の責を負うことになった。こうして日銀が金融政策の中心となり財政と金融の分離が進行した。

官業払い下げは、民への条件が厳しく進まなかった。それは、財政資金回収が重視されたからであったが18847月の鉱山払い下げ決定と同年10月の概則廃止を契機に、官業の払い下げが本格化した。

官業は鉄道・電信・兵器などの限定した分野に対して拡充する方針であったため、188512月の内閣制導入に伴い工部省は廃止され、交通・通信を担当する逓信省が設立され(鉄道は内閣直属)、払い下げを受けた政商は鉱工業に進出して財閥に発展する基盤を獲得した。

勧農事業に関する間接的勧業政策は以下のような進展を見せた。1881年に設置された農商務省は地方の府県勧業課などを中心にして勧業諸会の拡充に努めるほか、188411月には、同業者の自主的な合意形成を前提にした恒常的組織として物産改良などを進める同業組合の設立に着手した。しかし実際には、同業組織は監督する府県の裁量権が大きなものにならざるを得なかった実情があった。方向は同じとしても、政府関与の程度に差が生じた。それでも、勧業諸会・商人組織は進展し在来技術改良に効果を上げていた。

前田商務局長35歳)は、間接的勧業政策を進めるべく1885年1月に農商務省改革に着手しこれの手段として興業銀行設立も企画したが、12月に非職となった。直輸出奨励・在来産業育成を重視ていた前田は、正貨蓄積を優先する松方とは興業銀行設立の基本にある金融政策に齟齬があったのである。