自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年7月12日金曜日

7月12日(金) 資本論の読解シリーズも残すところ第三巻のあと一篇となったぞ

アイスバーグ
『資本論』全三巻は昨年四月に完読したつもりになって、その後別ブログに逐次読解を掲載している。
第一巻(資本の生産過程)は大月文庫三冊分に当たるが、この巻が全体の中心をなすので、各章ごとにわけて掲載した。
第二巻(資本流通過程)については、大月文庫二冊分に当たるが、エイッと纏めて全巻を一度に掲載した。
第三巻については大月文庫三冊分に当たるが、学者ではない小生にとっては原理的部分についての繰り返しが目についてきて、次第に忍耐力が薄れて短く纏めるのが困難となり、結果各篇ごとに掲載してきたのだが、第六編についてはもう五ヶ月も放置していた。今回やっと短く纏めて掲載した。残りは元々短い第七篇だけとなったから、『資本論』読解シリーズもいよいよ千秋楽となる。



2019年7月2日火曜日

6月28日(金) 世界は新しい暴力サイクルに入ったのか? ジョン・ダワー

ジョン・w・ダワー『敗北を抱きしめて』 2004年増補版  岩波書店


 2006年よりはじめた、仲間との定例読書会はすでに70回以上となったが、その第一回目に私が取り上げたのがこの本であった。そのときの内心の問いは、日本の現代史としての太平洋戦争開始とその後の出来事について、その本質とは何かということであった。本書はそのための歴史的事実を知るのに選定したもので、日本近代史を専攻する米国の著名な歴史家の著作であることにはそれなりの理由もあった。
 米国との戦争開始の10年ほど前、日本国は中国に対して侵略戦争を始め、それが太平洋戦争に拡大して米国を中心とする連合国に敗退した(1945年)。国家は統治能力を失い国土は焦土と化し経済は破綻し人々は悲惨な生活を強いられた。死者は同胞だけで300万人ほどに達し中国大陸だけでも1500万人に及んだ。そして無条件降伏をしてアメリカが占領軍としてやってきた。
 占領軍は敗戦後7年間にわたり占領政策を実施した。それは日本の非軍事化と民主化を実現するという基本戦略に基づいていた、しかし直ぐに非共産化政策が付け加えられて東西冷戦下での西側陣営に組み込まれた。著者はこの間における日本の現代史を、時が経過して公開された部分を含んだ多様な資料と一般の人々の真意に対する独自の視点に基づいて、いくつもの切り口から浮彫りにしている。
 10年以上も前の読書メモを再掲しているのは、上記のような内心の問いへ応えられる準備が多少できたところで、初心を思い出すのもいいかもしれないと思ったからである。以下は、当時記しておいた本書の序文的な部分のまとめである。

 (カッコ内の赤小文字は小生の注記)
【増補版序】
l  原本は1999年に出版された。2001年の同時多発テロ以降世界は新しい暴力のサイクルに入った(ことを受けて、写真などを追加して増補版を発行した)。
l  イラク戦争とその後の占領は、先の大戦における日本占領と異なっている。その相違を問い、理解したい。これは過去を問い直す「歴史への問い」でもある。なぜ日本は、悲惨と混乱の最中で無秩序と無縁でありえたか、なぜ日米はかっての敵同士が急速に善意と信頼を取り戻しえたのか、等々。これらすべては過ぎ去った歴史なのだろうか?

【日本の読者へ】
l  この本の著者の趣意は、日米が残虐な戦争に陥った後に一転して友好国・同盟国になったのはなぜ?という問いへの回答を得ること。
l  歴史学は科学的で公正であるのは当然で、真の問題は「何を問うか」である。
l  歴史学の方法として、伝統的な文献史学だけではなく「人の思考や行動の理解を対象にした研究」に注力した(国家、社会、だけでなく、そこに生活している人間個人に注目して歴史を解釈する方法だろう。当然、方法と普遍性に課題がある)。
l  米国においては、社会、文化、政治の複雑な歴史の研究は、欧米については沢山あるが日本については稀である。だから、日本は画一的で西欧と異なった人たちである思われがちだが、それは間違いである。
l  敗北は死と破壊を終わらせてくれたから、日本人は「敗北を抱きしめ」たのだ。新時代の日本の理想として抱きしめるべきものを自問するなら、それは先の大戦後の歴史の瞬間である(それは確かに大事なことであるとは思うが一つの見方に過ぎない。小生は、現代日本の現状を認識して将来を語ろうとするのであれば、アジアとの近隣関係を含めて当事者で作った二三千年程の東アジア史を背景にして、中世日本に遡らねばならないだろうと感じている)。

【序】
l  ペリー来航による開港から第二次世界大戦に至るまでの日本の近代化の成功と挫折のおさらい。
l  三年八ヶ月の戦争の後、日本人だけで300万人、中国という地域だけで多分1500万人が死んで大東亜共栄圏は消滅した。(この戦争自体の異常性は、死者数が多いことだけではなく、自他に対する日本軍兵士の残虐行為や統治者達の「一億玉砕」宣伝などの不可解行動、これは彼らの感覚からすれば特に肥大化されているであろうことは推定できる、が欧米に対して日本国を野蛮で狂信的な人々の集団として印象付けた)。その後六年八ヶ月の軍事占領時代に入ったが、このこと自体を、(程度の問題としてではなく原理原則的問題として考えるならば)この間は国家主権を失い国際社会から隔離され軍事力で占領されていたという異常なこと(例え占領されていた割にはその前に比べて当面は平和であっても)として捉えねばならない。
l  日本の占領は実質的に米国の単独占領であり、植民地主義の最後の実例ともいえる(サイードのオリエンタリズムが参考になる)。その最高司令官であるマッカーサーにとっては救済されるべき東洋の異教徒国であり、米国は独善的で空想的で傲慢な理想主義の稀有な実例である「非軍事化と民主化」の改革プログラム(内容明細の理解必要)を日本に押し付けただけでなく、その後冷戦の従属的パートナーに仕立て上げた。だが、「平和と民主主義」という理想は日本に根を下ろした(しかし、手にした自由とお金に目を奪われて、見掛け倒しのところが沢山あることに気付かねば元も子もなくなることに気付かねばならない)。
l  占領は異常なほど抵抗なく行われた。それは、民衆が、人々を破滅に追いやった軍国主義者たちを憎み、戦争を嫌悪してそのような過去を乗り越えることを強く希望していたからである(多分民衆にはそれが可能であることを信じる根拠があったから絶望による破滅的行動をとらなかったのだろう。その信じる根拠に対する問いは本質的なものだろう。その問いに対する答えの一つは、政府は信じる根拠ではなく、単なる“お上”であったと思う。)。
l  破壊と占領は圧倒的であったから、米国(人)が日本(人)に何をするかが問題であり、敗者は影響力を持って語ることはできなかった。だが、敗者の目を通して世界を見ることによって学ぶものは多く、今日はそれが可能になった。そのためには「民衆意識」に注力することが有効であるので、社会や文化にも諸点を当てて日本人の敗北の体験を「内側から」伝える努力をした。
l  英米の「旧世代のアジア派」の日本理解は「東洋人は従順な家畜の群れである」という単純化された考えにとりつかれていたものであった(サイードのオリエンタリズムが参考になる)。敗戦後の日本人の行動はこの考えに基づく予測とは全く外れて、多彩で千変万化に富んだものであったが、それは敗北が徹底的であったから、人生や社会に対する価値観にまで遡って再考することになったからだろう。
l  戦時中に宣伝されていた人種や社会的団結は敗戦によって一夜で消失し、社会の上層部は私服を肥やすことに専念し、民衆はそれを見て思考と行動を根底から変えてしまっていた(しかしその割には秩序が保たれていたが、それはなぜだろうか。その問いは、日本における統治の根源を問うもので、今後の国家のあり方を問うものであろう。)。
l  占領軍がやってきて、自国内では過激と思われる「民主化」を民主的な思想とは全く逆の厳格な権威主義的方法によって遂行し始めると、日本の民衆はエネルギッシュに社会の実態を変えて行き、中堅官僚は本気で押し付けられた民主化の改革を始めた。それは、労働運動、カストリ文化、闇市、教育、宗教、等々の多方面にわたる。
l  マッカーサーは天皇と同じ不可侵であり、GHQと日本政府は二重の官僚構造であった。これは、官僚制民主主義、あるいは天皇制民主主義であった。
l  米国は天皇の戦争責任を問わない決定をしたが、これは戦争責任それ自体を実効あるように問えなくした。
日本の敗戦の観察から人間社会の共通項が取りさせる。①1930から1945年までの15年にわたる軍国主義が一夜にして崩壊したことは、イデオロギーの脆さを示している。これは20世紀の他地域における全体主義的な統治組織の崩壊として見られる現象と類似である。だが、多くの王室が没落したのに日本では君主制=天皇制が支持されたことは政治とイデオロギーの問題について示唆する(どう示唆するのか判明でない)。②日本人が自分の悲惨さは感じとれても他人のそれは無視しがちであったことは、民族のアイデンティティーが被害者意識によって染め上げられることを示している。③戦争犯罪に関して、社会共通の記憶の形成と偽の記憶作り(戦争責任は、敗戦国だけでなくもっと広く捉えるべき)。④日本人が呪文のように唱えてきた「平和と民主主義」は意味内容の対立や闘争の重い歴史を持っていて、日本特有の問題ではない(当然のことながら)。

2019年6月19日水曜日

6月19日(水) 岩井克人『貨幣論』 あたらしい『資本論』の始まりである、のか?

ハニーブーケ
『貨幣論』岩井克人 ちくま学芸文庫 1998年

 表題は本書の末尾に書かれていた一文「「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。」からの借用であるが、私は勝手にそこには次のような意味をがあると思う。

 マルクスは、個人の人権や自由に目覚め、自然を制御して富を生む力を獲得した19世紀のヨーロッパにおいて、現実においては、人々が日々を生きていくためには生命を危険にさらすほどの過酷な労働を強いられるという悲惨な社会状況がどうして発生しているのかを問い、当時の社会つまりマルクスの言う「資本主義的生産体制」の社会は必然的に崩壊することを予測し、新しい社会を構想して「資本論」を著した。その「資本論」の中で語られている「貨幣論」では、貨幣というものは「資本論」が前提している「労働価値説」(商品価値の源泉は労働という実在にあるという説)を根拠とするものであるから、著者によれば間違っている。従って、マルクスの「貨幣論」は終焉し、「資本論」とは異なる新しい社会を構想した「資本論」が始まるのだと。

 著者は文庫版への後記で「『貨幣論』とは、「貨幣とは何か?」という問いを巡る考察を通じて、「資本主義」にとって何が真の危機であるかを明らかにしようとした書物である。」と述べている。結論だけ言えば、それはマルクスが言うような「恐慌」(デフレの極)ではなくて、その反対の、それよりもはるかに資本主義の本質に関わる「ハイパーインフレ」ということになる。何故かについては、「貨幣とは何か?」という問いを巡る著者の考察から導き出されているのだが、考察の重要なプロセスはマルクスの貨幣論批判を通じて、同じ事だがマルクスの労働価値説批判を通じてなされている。つまり、貨幣が持つ価値の根拠は労働という実在にはない、と。しかし、もっと重要なことは、「貨幣とは何か?」という問い自体の視線を変更することにある。

 どういうことかというと、著者は貨幣と言語は類似していると言う。その比喩が意味していることは、ある共同体において、言語は既に昔からそこに存在しているものであって、共同体のメンバーは言語が通じることを普通は疑わないように、貨幣が通用するのは著者の言葉の「貨幣共同体」がそれが通用することを疑わない限りのことである、ということなのだろう。ここで「言語とは何であるか?」という問いに対する考察は、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム(言語の本質は、対象の記号化やその論理的構成物ではなくて、関係の中で編み帰られ続ける意味の束、かな?)と思って良いだろう。

 すると、共同体自体が言葉の通じぬ関係体になれば崩壊するであろうと推測できるように、「貨幣共同体」の崩壊は、つまりハイパーインフレによって人々が貨幣(それが札束でも電子記号データでも)を信じなくなる状態とは、恐ろしいことであっても、人間が人間である以上回避できる可能性を持っていることになるのだろう。相互にそれを信頼できる条件を追求し続けることによって。

2019年5月28日火曜日

5月28日(火) 口語訳 遠野物語 佐藤誠輔訳

ハニーブーケ
もちろん原作は柳田国男の文語体の著作で、その口語訳のひとつがこの河出文庫版。1992年に佐藤誠輔さんという岩手県の小学校の先生が口語訳をして、小田富英さんという専門家の注釈がついている。

 遠野という東北の山間にある盆地、そのような土地に代々生き続けた人々の歴史の心性、著者の柳田国男はそこに人間の営みの表現を見いだしたのだろう。口語体訳なので、私でもその心性に触れることができたようだ。東北学の赤坂憲雄さんの解説も良かった。

 ここに語られているのは、高々100年ほど前の明治時代に柳田が遠野の土地の人から直接聞いた、当時の出来事についての短い物語の羅列。その出来事は、語った人にとっては事実である。しかし、合理的に考えればあり得ないことである。つまり、その言葉達は歴史の心性の表現なのだ。そのことに少しでも触れられたのでOK。

2019年5月22日水曜日

5月22日(水) 岩波『日本歴史』版籍奉還後の廃藩置県は薩長主導で断行されたが・・・

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

三 廃藩置県と維新政権
ピンクのクイーンエリザベス

1        藩体制の解体

明治2年2月段階の新政府は、関東に東京府と神奈川県など9県を、中部には度会府(わたらいふ)と5県を、北陸には新潟府と新潟県を置いている[1]。この(⇒この地域を指すと思う)府県行政に関しては、大隈重信が政府財政の確保に向けて、明治元年から翌年7月8日の太政官制の改革で大蔵大輔(⇒読み方は、たゆうorたいふ)に任じられるまで[2]、監督強化と租税収奪を強行している。大隈の元には井上馨、伊藤博文、五代友厚らの「西洋主義者」が結集していた。3年9月には参議[3]に任じられた大隈が大輔を務める大蔵省は政府の財政難救済のために全国的増税策を進めたが、この新政府の地方政策に対しては、戦禍や軍事負担に伴う蜂起、農民闘争が多発していた。明治2年は特に東北地方が凶作で、3年末にかけて、帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士の蜂起を含めた農民闘争が発生した。4年の2月に発生した福島県の伊達郡での暴動には二万人が参加したと言われている。

政府では、昨年提示した諸務変革11カ条に続き、明治3年9月に「藩制」を頒布(はんぷ)して、三治一致を進めた。これは要するに府県藩の経営合理化を政府が指導する事で、特に藩については大中小の三ランクに分けた上で、職員数、藩高に対する海陸軍資、公廨費[4]などを定めている他、藩債の「償却」義務化、藩札回収指示などがなされた。集議院[5]での禄制改革の審議において、無条件に禄米の平均化を主張した藩が23藩あった(⇒多分、小藩の茹でガエル状態の事例としての記述だろう)。また、有力藩も旧禄の十分の一程度の削減を余儀なくされた。
 政府の府県藩三治政策、版籍奉還とその後の諸務改革のなかで、中小藩の廃藩が現実化し、明治4年7月14日の廃藩置県に至るまでに16藩が廃藩となり他藩への併合や県へ移行した(⇒藩の経済的破綻の明確化が改革の要)。御三卿の一橋家と田安家を除く大藩では盛岡藩が含まれている。盛岡藩と対照をなすのは米沢藩で、戊辰戦争で四万石の冊封処分を受けたにもかかわらず、明治3年以降の急進的な改革によって切り抜けている。


[1] 府県は明治元年より旧幕府の直轄地で、この時点でも全国に多数存在した
[2] この間、大隈は政府の金札通用と外交問題の処理に尽力し、元年12月には外国官副知事、二年正月に参与となり及び会計官副知事を兼任
[3] 参議は実質的に政府の最高幹部。この時の参議は、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允等6人
[4] 公廨費(くげひ、給与)
[5] 集議院は明治2年7月に公議所が改組されて発足した(⇒公議所と異なり立法権は剥奪されていた)



2 三藩親兵と廃藩論

明治2年6月17日に勅許された版籍奉還と政府が提示した諸務変革11カ条および翌年9月に頒布された「藩制」によって藩体制の解体は現実化していく、と同時に諸抵抗も顕在化してくる。藩経済の破綻やそれに基づいた秩序破壊や新政府の集権的施策に対する反発の他にも、攘夷から開国へと方向を転換した新政府に対する攘夷論者や守旧論者の反政府的行動も少なくなく、また、新政府内における政府改革についての意見も統一されているとは必ずしも言えなかった。

従って、新政府にとっては、統一した意思決定の仕組みの模索、廃藩後の地方統治方法、政府の軍事力確保は根本的課題であった(⇒薩長によるクーデター直後のこの時期における喫緊の課題は、暴力的反政府行動を新政府として制圧可能な軍事力の保持であったろう)。そのためには、鹿児島、山口、高知の三藩はもとより、戊辰戦争で新政府側に協力した名古屋、福井、徳島、鳥取などの有力大藩、新政府にとって役立つ力を持つとともに改革に積極的とみられた熊本、佐賀、彦根および米沢などの藩の取り込み、そして強力な改革推進者達の参画と合意が必要であった。

大納言[1]岩倉具視は明治3年中頃には政府の将来的な在り方の追求や郡県制を基本とした「政令一途」を企図するようになり、明治4年初め頃には有力大藩を集めた会議を計画している。高知藩を筆頭とする改革派の諸藩の中では、明治4年春頃には「人民平均」を具体化した上で、政府が議院を開くという考えも醸成されていた。

明治2年正月の横井小楠の暗殺に続き、同年9月に兵部大輔[2]大村永敏(⇒長州藩出身、益二郎)が山口藩関係者に襲撃されて11月に死去する。明治2年11月、山口藩は諸隊改編令[3]を発し、そのことで多数の兵士が脱退し、明治3年正月に知藩事の山口公館を包囲する「脱隊騒動」が発生した(⇒2月11日、木戸孝允は藩兵を率いて脱隊兵を鎮圧している)。山口藩脱退兵の大楽源太郎[4]は、日田県[5]庁襲撃を企図した周防大島襲撃後に、九州の反政府士族河上彦斎[6]のもとに逃れ、久留米藩[7]大参事水野正名[8]、応変隊[9]参謀小河真文[10]らに匿われていた。明治2年~3年にかけての、このような反政府運動に対して、参議木戸孝允は大楽らの暗躍を憂慮し、政府は2年12月に陸軍少将四条隆謌を巡察使任じて兵部省直属の兵員を派遣し、また、弾正少忠[11]の河野敏鎌[12]を日田県に出張させた(⇒山口県脱退兵の策動を鎮圧するため。3年11月)。明治4年正月に参議広沢真臣が暗殺され、同年3月に華族の外山光輔と愛宕通旭を盟主とする攘夷派の政府打倒計画が発覚し、政府は弾圧の徹底を余儀なくされていた(⇒外山と愛宕は3月7日に逮捕後12月に自刃の処断、久留米藩大参事水野正名は3月14日に河野敏鎌に捉えられ、後に弘前監獄で獄死)。

このような状況において、岩倉は島津久光や毛利敬親、そして鹿児島藩士族に絶大な影響力を持つ西郷隆盛を政府に取り込むことに尽力し、参議大久保利通も鹿児島藩の取り込みに注力し、兵部少輔山県有朋も、政府の軍隊について重視する部分には相違があるものの西郷隆盛を上京させることについては同意している。明治3年12月18日、勅使として岩倉は大久保と山県とともに鹿児島に入り、忠義と久光へ勅書を与え、両者が「王室ノ羽翼」「国家の柱石」であることを強調している(⇒承認欲求を満たす力の行使だろう)。明治3年末頃に西郷隆盛の政府への取り込みに成功した後、明治4年正月7日に岩倉は西郷を伴って山口に入り、敬親にも勅語を授けて上京を促した。大久保と木戸の両参議らは西郷の意向を受けて高知藩に赴き、明治4年正月19日、高知藩大参事板垣退助らと会談し、高知藩にも政府改革に参加するように求めた。かくして大久保、西郷、木戸、そして岩倉が東京に帰着すると、明治4年2月8日に三藩親兵の上京に向けた会議が三条実美の屋敷で開催された。翌日の三職会議[13]で鹿児島、山口、高知の三藩の兵を徴して御親兵[14]とすることが合意されている。
 三藩の兵の東京集結が具体化した後に東京に戻った木戸孝允は、6月11日に岩倉に対して「天下速に一途に帰し諸藩の方向弥一定する」ことの必要を伝えた。これは版籍奉還を第一段とし、第二段に「此期を以て諸藩へ同一の命を下し、帰一の実を挙げん」という廃藩へ向けた思いであった。政府改革案に関して大久保等と木戸孝允は対立していた。木戸は伊藤の進言もあって、大納言と参議の必要を強調し、それを上院にあたる議政官にすることを主張している(⇒木戸は議会の重視、大久保と岩倉は行政制度重視であったと思う)。大久保は木戸を参議に擁立することを提起したが、木戸はこれを固持して膠着状態となった(⇒木戸以外の参議[15]は全員辞任して、三藩の行政参加代表を木戸に一人にするという意味だと思う)。しかし、木戸は6月25日には西郷とともに参議を受諾し、7月には制度取調会議[16]を開催していた(⇒意見の相違があったとしても、国家のルール作りに大久保も木戸も岩倉も西郷も参加したことに意味があるのだろう)。


[1] 明治2年7月8日に太政官に設置され明治4年7月29日に廃止された行政の重要役職
[2] 国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省の次官
[3] 版籍奉還後の山口藩の兵士削減策、奇兵隊など平民出身者が冷遇された
[4] 尊皇攘夷派の長州藩士、反政府分子の嫌疑多く、明治4年に応変隊員により斬殺される
[5] 明治政府が慶応四年に設置した県、現在の大分県と福岡県東部に相当する
[6] 攘夷派の熊本藩士、佐久間象山の暗殺者、危険人物と見られ明治4年に小伝馬町で斬首
[7] 幕末には攘夷派と佐幕派の争いで消耗し、反政府分子の土壌あり、廃藩置県で消滅
[8] 大参事として藩の立て直し実施中、尊王攘夷派への藩の関与嫌疑で自身が調査中捕縛され、明治五年11月に弘前監獄で獄死
[9] 久留米藩尊皇攘夷派水野正名が創設した、武士・町民・農民混成軍団
[10] 新政府に対するクーデター計画に連座した尊攘派久留米藩士で、新政府に逮捕され斬罪
[11] 警察官僚16等級中8等級
[12] 1844年生まれの土佐藩郷士、後に立憲改進党副総理、文部大臣等歴任
[13] 総裁、議定、参与による当時の政府の意思決定会議
[14] 新政府直属の軍隊で、当面天皇及び御所の護衛を目的とする
[15] 岩倉、大隈、広沢が暗殺されているから他二名だと思う
[16] 明治憲法制定のために設置された「制度取調局」の前身だと思う


3 廃藩置県の決断

明治4年7月9日夕刻から、鹿児島藩と山口藩による廃藩を決断する密議が木戸邸にて行われた。参加者は山口藩から木戸と井上と山県、薩摩藩からは西郷と大久保と西郷従道と大山巌が参加し、主役は木戸と西郷及び大久保であった。軍事力行使もいとわないことも決められ、兵員は西郷が、資金は井上が担当した。廃藩の発表は、知事を上京させてから行うのではなく、直ちに行うことに決まった(⇒版籍奉還は天皇に土地を返還することを意味するが、廃藩とは藩という一つのクニが消滅することを意味する。薩長だけでこれを決断した新政府の実力者達の、この時点での夫々の本当の判断根拠には興味がある)。
 この密議の内容は7月12日に三条と岩倉に伝えられた。鹿児島、山口両藩をはじめとする有力藩の一大会議の開催を準備し「大藩同心意見書」(⇒大隈が岩倉のもとで作成)作成などに尽力していた岩倉は狼狽し「恭悦と申迄もなく候得共狼狽」[1]であった。同日三条のもとへ向かう岩倉に対して、大久保は、王政復古の際の心境を伝え、必ず廃藩断行の裁断を下されるよう釘をさし、「大を取而小を去ル之趣意」で決断、同意したと岩倉を説得した[2]。


[1] 「岩倉具視書翰」明治四年七月十二日『岩倉具視関係文書5』87頁
[2] 『大久保利通日記2』明治四年七月十三日の条、178頁


2019年4月19日金曜日

4月19日(金) 岩波『日本歴史』版籍奉還をさせるための木戸孝允等の努力を支えたものは?

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県


二 版籍奉還の上表
ピンクパンサー

1        版籍奉還の論形成
慶応三年10月14日の大政奉還以降翌年の明治元年末にかけて、薩摩藩、長州藩のキーマンが主導して版籍奉還の議論が煮詰まって行く(⇒幕末より、弱体化した徳川幕府に代わって近代に相応しい新政府を樹立すべきだという考えを持った勢力が力を蓄えつつあったが、その内実は多様であった。新勢力にとっては、慶喜の大政奉還という手に対して、300程の藩という組織体の統治権力を掌握して新しいコンセプトの下で再編成することは喫緊の課題であったものの、これをどのように実行するかと言う合意を得るには段階を踏む必要があった。しかも短時間の内に。そのことを新旧体制の一部の指導者達は理解していたのだろう)

2 版籍奉還の上表
東京から京都に還幸する(明治元年12月8日~22日)天皇に同行していた大久保利通は、同年末から翌年正月にかけて、版籍奉還論に関し、岩倉具視、長州の木戸孝允・広沢真臣、薩摩の小松帯刀・吉井友美・伊地知貞聲らと会談を重ね、岩倉に対しては京都で木戸との調整を画策し、薩摩藩に対しては長州藩への「信宜」貫徹を強調していた。
長州藩の広沢は版籍奉還論に関して、明治元年12月に兵庫で伊藤博文に会った翌月1日に京都にて世子の毛利元徳から下問を受け、在京の土佐藩主山内豊範に呼びかけて同意をえていた(⇒同月14日以前のはず)。
明治2年正月14日、京都の円山瑞療に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助(⇒土佐藩参加の背景は戊辰戦争での活躍だろう)等が集まり、三藩による「土地人民返上」の会議が、広沢の主導で開かれた。まず三藩が同心・戮力して朝廷を輔翼することに合意した。会議の概要は大久保が岩倉に宛てた書面に記載されている。18日には肥前が加わった「薩長土肥御連盟御建白書一件」が「治定」となり、20日に「重臣一同」が参朝して、毛利敬親、島津忠義、鍋島直大、山内豊範の四藩主名の上表が行われた。その後、因習(鳥取)・佐土原(宮崎)・越前・肥後・大垣・米沢などの奉還願いが相次いだが、版籍奉還の上表は、諸藩が必ずしも大隈重信の「昔日譚」に記されたような、「判物の書換」に欺かれて提出したわけではない(⇒諸藩の上表提出には各藩なりの判断があった)。



3 侯伯大会議の開催
明治二年正月20日に行われた、薩長土肥藩主による版籍奉還の上表以後、木戸、岩倉、大久保は、その趣旨を全国にわたり実行可能にすべく迅速な行動を開始した。木戸は天皇の東京再幸にあわせての奉還を企図し、岩倉は上局会議[1]として「侯伯大会議」を予定するとともに薩長両藩への勅使を具体化した。しかし、京都や東京の政府内にも、薩摩、長州の藩内にも、木戸や岩倉や大久保などの思惑に反する状況も存在していた。
岩倉は東京での「侯伯大会議」の開催と、そこでの版籍奉還問題の推進に全力を傾注し、天皇は3月7日に発輦して3月28日に東京に到着した。版籍奉還問題について岩倉と密議を重ねていた木戸は、四藩の上表後の再幸にあわせて、数十藩が奉還上表を行い、政府がそれを断行できるように企図し、三条実美は5月4日、薩長土肥の公議人を招いて、版籍奉還に関する「機務」を下問し、郡県制の是非についての意見を徴し、5月17日に答申が行われた。
同時期に公議所では郡県制への移行が議論され、軍務官判事議事取調兼務の森有礼が5月4日に「御国体之儀ニ付問題四条」を提起して、それを「衆議院」連名の議案としてしている。版籍奉還問題に対する制度面については、制度療で具体案作成していた。岩倉は「侯伯大会議」に向けて腹心を参画させて原案の作成を試み「岩倉案」として政府会議に提示した。
東京での「侯伯大会議」は上局会議として開催され、5月21日に、行政官や六官の五等官以上、上級の公卿と有力諸侯の麝香間祗候(⇒名誉職)に対して、皇道興隆、知藩事選任、蝦夷地開拓の三件が諮詢された(⇒知藩事選任が諮詢された。要するに天皇の命によって、廃藩置県の実行を目指したプランが動き始めた)。



[1] 明治初年の立法機関。議定・参与などで構成され、政体の創立、法律の制定、条約の締結などを職掌した



4 版籍奉還と諸務変革
版籍奉還は、その断行を巡って、政府内は改革に急進的な木戸孝允、後藤象二郎と漸進的な大久保利通と副島種臣の対立が生じたが、調整を重ねた結果、明治二年6月17日に勅許され、同日、公卿、諸侯の称が廃されて「華族」に統一された。藩主は藩知事に任じられ、25日までの藩知事任用は262藩となった(⇒この段階では藩の実質的統治は前藩主である藩知事にある)。大藩の有力家臣の地方知行[1]が廃されて稟米支給[2]に改められた。この勅許の直後に、政府は諸務変革11カ条を提示した。
版籍奉還の断行は、知藩事任用と公卿、諸侯の廃止に伴う華族の勅許が最優先され、その後に藩政の在り方や改革が検討された。この諸務変革については、大久保の原案が政府内の主な検討案とされたようである。大久保の検討案文は、6月25日に知藩事等に対して出された行政官達の根幹となった。それは、政府が諸藩の職制、兵制、家禄などを把握してその改革を指示するものと理解され、奉還後の郡県制への移行や各藩の改革の推進に繋がるものであった。




[1] 家臣に土地の支配権、つまりその土地からの収益に対する処分権を与えること
[2] 蓄えられた米の支給



2019年4月15日月曜日

4月15日(月) 岩波『日本歴史』戊辰戦争が終わって近代日本が始動し始める

 15巻からが近現代が始まる。章ごとに纏まった時点で別ブログに掲載していくつもりで、緒言的な「近現代史への招待」(吉田裕著)は既に掲載したが、本章に入った途端に色々調べつつ読まないと分からなくなり、進まなくなった。
そこで、このブログには各節くらい毎の概要のみを掲載して、一つの章が纏まったら別ブログに掲載していく事にした。

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

はじめに
ピース

慶応三年(1867年)10月14日の大政奉還、12月9日の王政復古と続くが、新政権の基盤をなす内政、外交などの実権の掌握と、土地人民の掌握である「王土王民」の原則を貫徹するには、慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争の勝利が不可欠であった。戊辰戦争は、翌明治2年5月18日の函館の奪回まで続く。戊辰戦争と軌を一にして版籍奉還が企図されて明治2年6月に実行され、続いて明治4年7月に廃藩置県が断行される。戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県によって新政権の権力基盤が形成されていったが、これらについては尚研究が進行中である(⇒新政府の誕生や権力構造についての理解は、その後に形成された歴史意識によって曇らされているようだ。一般理解に至っては著名な歴史小説家の言説に依存しているのだろう)。

一 王政復古と戊辰戦争
1 鳥羽・伏見戦争と徳川慶喜
慶応四年正月三日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、幕府側が大敗し、「朝敵」と断じられた。王政復古が断行されると二条城から大阪城へ移っていた徳川慶喜は正月六日夜に大阪城を抜け出して天保山沖に出て米国の軍艦に助けられ、翌朝幕府の開陽丸に移り、八日に開纜(ともづな)して江戸に逃れた。大阪城中では七日になって慶喜脱出を知り愕然となった。
新政府は七日には徳川慶喜に対して征討令を発することで諸侯の去就を確定させた。次いで徳川諸藩の要職に就いていた姫路藩は帰順し、板倉老中の出身である備中松山藩は開城した。江戸詰の老中稲葉正邦の淀藩は戦い早々に撤退してきた幕府側の入城を拒んでいた。(⇒要するに幕府側は一体になって闘う状況には無かったのだろう。しかし、なぜ?の疑問に対しては前史に溯ることで理解が深まる)
  
2 新政府軍と江戸開城
慶応四年正月六日に始まった鳥羽伏見の戦いがわずか数日で幕府側の大敗で終わった直後、新政府側は東征軍(⇒主力は薩長軍)を東海道、東山道、北陸道の各方面に分けて進軍させ、3月15日には江戸城進撃というその前日、幕府陸軍総督の勝海舟と新政府大総督府参謀西郷隆盛が江戸薩摩藩邸にて面談し、徳川氏処分と翌日の江戸城進撃中止と江戸開城について合意する。新政府側は勝との合意を無視して先鋒総督参謀海江田信義(⇒薩摩藩士、西郷、大久保の盟友)が4月11日明け方に兵力を動員して江戸城に入城した。
その間、新政府は、統治体制、官僚組織、財政政策、軍の掌握などに関連した施策を急速に進めた。しかし、外交的配慮が幕府側に比べて遅れていたために、東征に際しては幾つかの問題が発生した。江戸に逃げ帰った慶喜は、当初は新政府に反発していたが「朝敵」にされるや2月12日に寛永寺に閉居し、4月11日未明に江戸城を退去し水戸へ向かった。その後戊辰戦争終了までの幕府側の抵抗については、事項にて述べられる。

3 関東の騒乱
江戸開城後も旧幕府勢力は、市中では上野に彰義隊が残り、江戸周辺では江戸周辺の旧幕府軍と連繋して新政府側と閏4月末ほどまで対峙したが、5月19日に彰義隊が半日で壊滅し、新政府は同日、江戸鎮台の設置と徳川家達を70万石にて駿河府中移封を命じた。

*新政府軍に抵抗した19歳の小藩主のエピソード
 請西藩の藩主主林忠崇の反抗。請西藩は木更津の小さな藩であるが、藩主主林忠崇は、江戸を脱走した旧幕府遊撃隊と連繋して新政府軍に抵抗した。当時20歳程であった請西藩主は、近辺の勝山藩、飯野藩、館山藩等から出兵させ、小田原藩に協力を求め、韮山代官江川英武にも出兵協力を要請し、駿河藩や駿河勤番与力等の応援部隊と合流し、御殿場から甲府へ進撃して占拠を試みたが、山岡鉄舟等の出張などで断念し、上野の彰義隊の戦いに呼応して箱根の関所を守る小田原藩と戦い、最後は後述の東北戦争に参加中に降伏する(⇒請西藩は最後に改易された藩となった。かなり長い困窮生活の後、忠崇は1893年になってやっと華族に復権し、1941年92歳で最後に生き残った大名として逝去)

4 奥羽越列藩同盟と箱館戦争
新政府は鳥羽伏見の戦い直後の正月15日に奥羽諸藩に対して応援を要請する一方、江戸開城後も東征軍は東山道、北陸道を進軍し、奥羽鎮撫総督九条道孝以下は仙台へ派遣され、艦隊は兵を乗船させて太平洋沿岸を北上した。しかし、新政府側が奥羽と越後の諸藩を統治下に置くのは、紆余曲折を経た後、会津藩が降伏する9月22日頃となる。この内戦で、奥羽越列藩同盟を結んで抵抗した諸藩においては、その対応の様は多様であった。
旧幕府の海軍副総裁は、江戸開城後も軍艦の引き渡しに抵抗し、彰義隊に擁された輪王寺宮や関東近辺の旧幕府側抵抗勢力の一部を茨城県の平潟や福島県の小名浜に送っていた。そして、慶喜の静岡移封を見届けた上で前老中板倉勝重、同小笠原長行、前若年寄永井尚  志、前所司代松平定敬等、総勢2500名が8月19日に北海道へ向かい10月25日に函館を占領したが、翌年5月18日に榎本が立てこもった五稜郭が降伏して箱館戦争は終結した。
この戊辰戦争による処罰については、会津藩主松平容保、喜徳父子が死一等を減じて永禁錮、継子とされた容保の子容大が削封に処され、仙台藩主伊達慶邦、庄内藩主酒井忠篤、南部藩主南部利剛、長岡藩主牧野忠訓、二本松藩主丹羽長国などが隠居、謹慎とされたほか、諸藩の首謀者は13人が斬罪と永禁錮に処された。また藩としての処分は石高の削減、転封、削封等に処された。(⇒戊辰戦争による戦死者は8500人程で、内新政府軍と旧幕府軍は大体同数、旧幕府軍の内会津藩が大体半数。近代の内戦としては極めて少ない。例えばアメリカの南北戦争では4年間で60万人程、フランス革命ではナポレオン戦争を含めてではあるが23年間で兵士と民間人がそれぞれ200万人ほどと言われている)。