自己紹介

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1946年9月、焦土と化した東京都内にて、食糧難と住宅難と就職難の中、運良く生き抜いた両親の新しき時代の一発目として生を受けるも、一年未満で感染症にて死にかける。生き延びたのは、ご近所に住む朝鮮人女性のもらい乳と父親がやっと手にした本の印税全部を叩いて進駐軍から手に入れたペニシリンのおかげであったらしい。ここまでは当然記憶にない。記憶になくても疑えないことである。 物心がついた頃には理系少年になっていた。それが何故なのか定かではないが、誤魔化しうるコトバより、誤魔化しえない数や図形に安堵を覚えたのかもしれない。言葉というものが、単なる記号ではなく、実は世界を分節し、意味と価値の認識それ自体をも可能にするものであることに気付きはじめたのは50歳を過ぎてからであった。 30年間程の企業勤めの後、現在は知の世界に遊ぶ自称哲学徒、通称孫が気になる普通の爺~じ。ブログには庭で育てている薔薇の写真も載せました。

2019年5月28日火曜日

5月28日(火) 口語訳 遠野物語 佐藤誠輔訳

ハニーブーケ
もちろん原作は柳田国男の文語体の著作で、その口語訳のひとつがこの河出文庫版。1992年に佐藤誠輔さんという岩手県の小学校の先生が口語訳をして、小田富英さんという専門家の注釈がついている。

 遠野という東北の山間にある盆地、そのような土地に代々生き続けた人々の歴史の心性、著者の柳田国男はそこに人間の営みの表現を見いだしたのだろう。口語体訳なので、私でもその心性に触れることができたようだ。東北学の赤坂憲雄さんの解説も良かった。

 ここに語られているのは、高々100年ほど前の明治時代に柳田が遠野の土地の人から直接聞いた、当時の出来事についての短い物語の羅列。その出来事は、語った人にとっては事実である。しかし、合理的に考えればあり得ないことである。つまり、その言葉達は歴史の心性の表現なのだ。そのことに少しでも触れられたのでOK。

2019年5月22日水曜日

5月22日(水) 岩波『日本歴史』版籍奉還後の廃藩置県は薩長主導で断行されたが・・・

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

三 廃藩置県と維新政権
ピンクのクイーンエリザベス

1        藩体制の解体

明治2年2月段階の新政府は、関東に東京府と神奈川県など9県を、中部には度会府(わたらいふ)と5県を、北陸には新潟府と新潟県を置いている[1]。この(⇒この地域を指すと思う)府県行政に関しては、大隈重信が政府財政の確保に向けて、明治元年から翌年7月8日の太政官制の改革で大蔵大輔(⇒読み方は、たゆうorたいふ)に任じられるまで[2]、監督強化と租税収奪を強行している。大隈の元には井上馨、伊藤博文、五代友厚らの「西洋主義者」が結集していた。3年9月には参議[3]に任じられた大隈が大輔を務める大蔵省は政府の財政難救済のために全国的増税策を進めたが、この新政府の地方政策に対しては、戦禍や軍事負担に伴う蜂起、農民闘争が多発していた。明治2年は特に東北地方が凶作で、3年末にかけて、帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士の蜂起を含めた農民闘争が発生した。4年の2月に発生した福島県の伊達郡での暴動には二万人が参加したと言われている。

政府では、昨年提示した諸務変革11カ条に続き、明治3年9月に「藩制」を頒布(はんぷ)して、三治一致を進めた。これは要するに府県藩の経営合理化を政府が指導する事で、特に藩については大中小の三ランクに分けた上で、職員数、藩高に対する海陸軍資、公廨費[4]などを定めている他、藩債の「償却」義務化、藩札回収指示などがなされた。集議院[5]での禄制改革の審議において、無条件に禄米の平均化を主張した藩が23藩あった(⇒多分、小藩の茹でガエル状態の事例としての記述だろう)。また、有力藩も旧禄の十分の一程度の削減を余儀なくされた。
 政府の府県藩三治政策、版籍奉還とその後の諸務改革のなかで、中小藩の廃藩が現実化し、明治4年7月14日の廃藩置県に至るまでに16藩が廃藩となり他藩への併合や県へ移行した(⇒藩の経済的破綻の明確化が改革の要)。御三卿の一橋家と田安家を除く大藩では盛岡藩が含まれている。盛岡藩と対照をなすのは米沢藩で、戊辰戦争で四万石の冊封処分を受けたにもかかわらず、明治3年以降の急進的な改革によって切り抜けている。


[1] 府県は明治元年より旧幕府の直轄地で、この時点でも全国に多数存在した
[2] この間、大隈は政府の金札通用と外交問題の処理に尽力し、元年12月には外国官副知事、二年正月に参与となり及び会計官副知事を兼任
[3] 参議は実質的に政府の最高幹部。この時の参議は、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允等6人
[4] 公廨費(くげひ、給与)
[5] 集議院は明治2年7月に公議所が改組されて発足した(⇒公議所と異なり立法権は剥奪されていた)



2 三藩親兵と廃藩論

明治2年6月17日に勅許された版籍奉還と政府が提示した諸務変革11カ条および翌年9月に頒布された「藩制」によって藩体制の解体は現実化していく、と同時に諸抵抗も顕在化してくる。藩経済の破綻やそれに基づいた秩序破壊や新政府の集権的施策に対する反発の他にも、攘夷から開国へと方向を転換した新政府に対する攘夷論者や守旧論者の反政府的行動も少なくなく、また、新政府内における政府改革についての意見も統一されているとは必ずしも言えなかった。

従って、新政府にとっては、統一した意思決定の仕組みの模索、廃藩後の地方統治方法、政府の軍事力確保は根本的課題であった(⇒薩長によるクーデター直後のこの時期における喫緊の課題は、暴力的反政府行動を新政府として制圧可能な軍事力の保持であったろう)。そのためには、鹿児島、山口、高知の三藩はもとより、戊辰戦争で新政府側に協力した名古屋、福井、徳島、鳥取などの有力大藩、新政府にとって役立つ力を持つとともに改革に積極的とみられた熊本、佐賀、彦根および米沢などの藩の取り込み、そして強力な改革推進者達の参画と合意が必要であった。

大納言[1]岩倉具視は明治3年中頃には政府の将来的な在り方の追求や郡県制を基本とした「政令一途」を企図するようになり、明治4年初め頃には有力大藩を集めた会議を計画している。高知藩を筆頭とする改革派の諸藩の中では、明治4年春頃には「人民平均」を具体化した上で、政府が議院を開くという考えも醸成されていた。

明治2年正月の横井小楠の暗殺に続き、同年9月に兵部大輔[2]大村永敏(⇒長州藩出身、益二郎)が山口藩関係者に襲撃されて11月に死去する。明治2年11月、山口藩は諸隊改編令[3]を発し、そのことで多数の兵士が脱退し、明治3年正月に知藩事の山口公館を包囲する「脱隊騒動」が発生した(⇒2月11日、木戸孝允は藩兵を率いて脱隊兵を鎮圧している)。山口藩脱退兵の大楽源太郎[4]は、日田県[5]庁襲撃を企図した周防大島襲撃後に、九州の反政府士族河上彦斎[6]のもとに逃れ、久留米藩[7]大参事水野正名[8]、応変隊[9]参謀小河真文[10]らに匿われていた。明治2年~3年にかけての、このような反政府運動に対して、参議木戸孝允は大楽らの暗躍を憂慮し、政府は2年12月に陸軍少将四条隆謌を巡察使任じて兵部省直属の兵員を派遣し、また、弾正少忠[11]の河野敏鎌[12]を日田県に出張させた(⇒山口県脱退兵の策動を鎮圧するため。3年11月)。明治4年正月に参議広沢真臣が暗殺され、同年3月に華族の外山光輔と愛宕通旭を盟主とする攘夷派の政府打倒計画が発覚し、政府は弾圧の徹底を余儀なくされていた(⇒外山と愛宕は3月7日に逮捕後12月に自刃の処断、久留米藩大参事水野正名は3月14日に河野敏鎌に捉えられ、後に弘前監獄で獄死)。

このような状況において、岩倉は島津久光や毛利敬親、そして鹿児島藩士族に絶大な影響力を持つ西郷隆盛を政府に取り込むことに尽力し、参議大久保利通も鹿児島藩の取り込みに注力し、兵部少輔山県有朋も、政府の軍隊について重視する部分には相違があるものの西郷隆盛を上京させることについては同意している。明治3年12月18日、勅使として岩倉は大久保と山県とともに鹿児島に入り、忠義と久光へ勅書を与え、両者が「王室ノ羽翼」「国家の柱石」であることを強調している(⇒承認欲求を満たす力の行使だろう)。明治3年末頃に西郷隆盛の政府への取り込みに成功した後、明治4年正月7日に岩倉は西郷を伴って山口に入り、敬親にも勅語を授けて上京を促した。大久保と木戸の両参議らは西郷の意向を受けて高知藩に赴き、明治4年正月19日、高知藩大参事板垣退助らと会談し、高知藩にも政府改革に参加するように求めた。かくして大久保、西郷、木戸、そして岩倉が東京に帰着すると、明治4年2月8日に三藩親兵の上京に向けた会議が三条実美の屋敷で開催された。翌日の三職会議[13]で鹿児島、山口、高知の三藩の兵を徴して御親兵[14]とすることが合意されている。
 三藩の兵の東京集結が具体化した後に東京に戻った木戸孝允は、6月11日に岩倉に対して「天下速に一途に帰し諸藩の方向弥一定する」ことの必要を伝えた。これは版籍奉還を第一段とし、第二段に「此期を以て諸藩へ同一の命を下し、帰一の実を挙げん」という廃藩へ向けた思いであった。政府改革案に関して大久保等と木戸孝允は対立していた。木戸は伊藤の進言もあって、大納言と参議の必要を強調し、それを上院にあたる議政官にすることを主張している(⇒木戸は議会の重視、大久保と岩倉は行政制度重視であったと思う)。大久保は木戸を参議に擁立することを提起したが、木戸はこれを固持して膠着状態となった(⇒木戸以外の参議[15]は全員辞任して、三藩の行政参加代表を木戸に一人にするという意味だと思う)。しかし、木戸は6月25日には西郷とともに参議を受諾し、7月には制度取調会議[16]を開催していた(⇒意見の相違があったとしても、国家のルール作りに大久保も木戸も岩倉も西郷も参加したことに意味があるのだろう)。


[1] 明治2年7月8日に太政官に設置され明治4年7月29日に廃止された行政の重要役職
[2] 国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省の次官
[3] 版籍奉還後の山口藩の兵士削減策、奇兵隊など平民出身者が冷遇された
[4] 尊皇攘夷派の長州藩士、反政府分子の嫌疑多く、明治4年に応変隊員により斬殺される
[5] 明治政府が慶応四年に設置した県、現在の大分県と福岡県東部に相当する
[6] 攘夷派の熊本藩士、佐久間象山の暗殺者、危険人物と見られ明治4年に小伝馬町で斬首
[7] 幕末には攘夷派と佐幕派の争いで消耗し、反政府分子の土壌あり、廃藩置県で消滅
[8] 大参事として藩の立て直し実施中、尊王攘夷派への藩の関与嫌疑で自身が調査中捕縛され、明治五年11月に弘前監獄で獄死
[9] 久留米藩尊皇攘夷派水野正名が創設した、武士・町民・農民混成軍団
[10] 新政府に対するクーデター計画に連座した尊攘派久留米藩士で、新政府に逮捕され斬罪
[11] 警察官僚16等級中8等級
[12] 1844年生まれの土佐藩郷士、後に立憲改進党副総理、文部大臣等歴任
[13] 総裁、議定、参与による当時の政府の意思決定会議
[14] 新政府直属の軍隊で、当面天皇及び御所の護衛を目的とする
[15] 岩倉、大隈、広沢が暗殺されているから他二名だと思う
[16] 明治憲法制定のために設置された「制度取調局」の前身だと思う


3 廃藩置県の決断

明治4年7月9日夕刻から、鹿児島藩と山口藩による廃藩を決断する密議が木戸邸にて行われた。参加者は山口藩から木戸と井上と山県、薩摩藩からは西郷と大久保と西郷従道と大山巌が参加し、主役は木戸と西郷及び大久保であった。軍事力行使もいとわないことも決められ、兵員は西郷が、資金は井上が担当した。廃藩の発表は、知事を上京させてから行うのではなく、直ちに行うことに決まった(⇒版籍奉還は天皇に土地を返還することを意味するが、廃藩とは藩という一つのクニが消滅することを意味する。薩長だけでこれを決断した新政府の実力者達の、この時点での夫々の本当の判断根拠には興味がある)。
 この密議の内容は7月12日に三条と岩倉に伝えられた。鹿児島、山口両藩をはじめとする有力藩の一大会議の開催を準備し「大藩同心意見書」(⇒大隈が岩倉のもとで作成)作成などに尽力していた岩倉は狼狽し「恭悦と申迄もなく候得共狼狽」[1]であった。同日三条のもとへ向かう岩倉に対して、大久保は、王政復古の際の心境を伝え、必ず廃藩断行の裁断を下されるよう釘をさし、「大を取而小を去ル之趣意」で決断、同意したと岩倉を説得した[2]。


[1] 「岩倉具視書翰」明治四年七月十二日『岩倉具視関係文書5』87頁
[2] 『大久保利通日記2』明治四年七月十三日の条、178頁


2019年4月19日金曜日

4月19日(金) 岩波『日本歴史』版籍奉還をさせるための木戸孝允等の努力を支えたものは?

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県


二 版籍奉還の上表
ピンクパンサー

1        版籍奉還の論形成
慶応三年10月14日の大政奉還以降翌年の明治元年末にかけて、薩摩藩、長州藩のキーマンが主導して版籍奉還の議論が煮詰まって行く(⇒幕末より、弱体化した徳川幕府に代わって近代に相応しい新政府を樹立すべきだという考えを持った勢力が力を蓄えつつあったが、その内実は多様であった。新勢力にとっては、慶喜の大政奉還という手に対して、300程の藩という組織体の統治権力を掌握して新しいコンセプトの下で再編成することは喫緊の課題であったものの、これをどのように実行するかと言う合意を得るには段階を踏む必要があった。しかも短時間の内に。そのことを新旧体制の一部の指導者達は理解していたのだろう)

2 版籍奉還の上表
東京から京都に還幸する(明治元年12月8日~22日)天皇に同行していた大久保利通は、同年末から翌年正月にかけて、版籍奉還論に関し、岩倉具視、長州の木戸孝允・広沢真臣、薩摩の小松帯刀・吉井友美・伊地知貞聲らと会談を重ね、岩倉に対しては京都で木戸との調整を画策し、薩摩藩に対しては長州藩への「信宜」貫徹を強調していた。
長州藩の広沢は版籍奉還論に関して、明治元年12月に兵庫で伊藤博文に会った翌月1日に京都にて世子の毛利元徳から下問を受け、在京の土佐藩主山内豊範に呼びかけて同意をえていた(⇒同月14日以前のはず)。
明治2年正月14日、京都の円山瑞療に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助(⇒土佐藩参加の背景は戊辰戦争での活躍だろう)等が集まり、三藩による「土地人民返上」の会議が、広沢の主導で開かれた。まず三藩が同心・戮力して朝廷を輔翼することに合意した。会議の概要は大久保が岩倉に宛てた書面に記載されている。18日には肥前が加わった「薩長土肥御連盟御建白書一件」が「治定」となり、20日に「重臣一同」が参朝して、毛利敬親、島津忠義、鍋島直大、山内豊範の四藩主名の上表が行われた。その後、因習(鳥取)・佐土原(宮崎)・越前・肥後・大垣・米沢などの奉還願いが相次いだが、版籍奉還の上表は、諸藩が必ずしも大隈重信の「昔日譚」に記されたような、「判物の書換」に欺かれて提出したわけではない(⇒諸藩の上表提出には各藩なりの判断があった)。



3 侯伯大会議の開催
明治二年正月20日に行われた、薩長土肥藩主による版籍奉還の上表以後、木戸、岩倉、大久保は、その趣旨を全国にわたり実行可能にすべく迅速な行動を開始した。木戸は天皇の東京再幸にあわせての奉還を企図し、岩倉は上局会議[1]として「侯伯大会議」を予定するとともに薩長両藩への勅使を具体化した。しかし、京都や東京の政府内にも、薩摩、長州の藩内にも、木戸や岩倉や大久保などの思惑に反する状況も存在していた。
岩倉は東京での「侯伯大会議」の開催と、そこでの版籍奉還問題の推進に全力を傾注し、天皇は3月7日に発輦して3月28日に東京に到着した。版籍奉還問題について岩倉と密議を重ねていた木戸は、四藩の上表後の再幸にあわせて、数十藩が奉還上表を行い、政府がそれを断行できるように企図し、三条実美は5月4日、薩長土肥の公議人を招いて、版籍奉還に関する「機務」を下問し、郡県制の是非についての意見を徴し、5月17日に答申が行われた。
同時期に公議所では郡県制への移行が議論され、軍務官判事議事取調兼務の森有礼が5月4日に「御国体之儀ニ付問題四条」を提起して、それを「衆議院」連名の議案としてしている。版籍奉還問題に対する制度面については、制度療で具体案作成していた。岩倉は「侯伯大会議」に向けて腹心を参画させて原案の作成を試み「岩倉案」として政府会議に提示した。
東京での「侯伯大会議」は上局会議として開催され、5月21日に、行政官や六官の五等官以上、上級の公卿と有力諸侯の麝香間祗候(⇒名誉職)に対して、皇道興隆、知藩事選任、蝦夷地開拓の三件が諮詢された(⇒知藩事選任が諮詢された。要するに天皇の命によって、廃藩置県の実行を目指したプランが動き始めた)。



[1] 明治初年の立法機関。議定・参与などで構成され、政体の創立、法律の制定、条約の締結などを職掌した



4 版籍奉還と諸務変革
版籍奉還は、その断行を巡って、政府内は改革に急進的な木戸孝允、後藤象二郎と漸進的な大久保利通と副島種臣の対立が生じたが、調整を重ねた結果、明治二年6月17日に勅許され、同日、公卿、諸侯の称が廃されて「華族」に統一された。藩主は藩知事に任じられ、25日までの藩知事任用は262藩となった(⇒この段階では藩の実質的統治は前藩主である藩知事にある)。大藩の有力家臣の地方知行[1]が廃されて稟米支給[2]に改められた。この勅許の直後に、政府は諸務変革11カ条を提示した。
版籍奉還の断行は、知藩事任用と公卿、諸侯の廃止に伴う華族の勅許が最優先され、その後に藩政の在り方や改革が検討された。この諸務変革については、大久保の原案が政府内の主な検討案とされたようである。大久保の検討案文は、6月25日に知藩事等に対して出された行政官達の根幹となった。それは、政府が諸藩の職制、兵制、家禄などを把握してその改革を指示するものと理解され、奉還後の郡県制への移行や各藩の改革の推進に繋がるものであった。




[1] 家臣に土地の支配権、つまりその土地からの収益に対する処分権を与えること
[2] 蓄えられた米の支給



2019年4月15日月曜日

4月15日(月) 岩波『日本歴史』戊辰戦争が終わって近代日本が始動し始める

 15巻からが近現代が始まる。章ごとに纏まった時点で別ブログに掲載していくつもりで、緒言的な「近現代史への招待」(吉田裕著)は既に掲載したが、本章に入った途端に色々調べつつ読まないと分からなくなり、進まなくなった。
そこで、このブログには各節くらい毎の概要のみを掲載して、一つの章が纏まったら別ブログに掲載していく事にした。

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ(2014.2.19)
戊辰戦争と廃藩置県

はじめに
ピース

慶応三年(1867年)10月14日の大政奉還、12月9日の王政復古と続くが、新政権の基盤をなす内政、外交などの実権の掌握と、土地人民の掌握である「王土王民」の原則を貫徹するには、慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争の勝利が不可欠であった。戊辰戦争は、翌明治2年5月18日の函館の奪回まで続く。戊辰戦争と軌を一にして版籍奉還が企図されて明治2年6月に実行され、続いて明治4年7月に廃藩置県が断行される。戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県によって新政権の権力基盤が形成されていったが、これらについては尚研究が進行中である(⇒新政府の誕生や権力構造についての理解は、その後に形成された歴史意識によって曇らされているようだ。一般理解に至っては著名な歴史小説家の言説に依存しているのだろう)。

一 王政復古と戊辰戦争
1 鳥羽・伏見戦争と徳川慶喜
慶応四年正月三日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、幕府側が大敗し、「朝敵」と断じられた。王政復古が断行されると二条城から大阪城へ移っていた徳川慶喜は正月六日夜に大阪城を抜け出して天保山沖に出て米国の軍艦に助けられ、翌朝幕府の開陽丸に移り、八日に開纜(ともづな)して江戸に逃れた。大阪城中では七日になって慶喜脱出を知り愕然となった。
新政府は七日には徳川慶喜に対して征討令を発することで諸侯の去就を確定させた。次いで徳川諸藩の要職に就いていた姫路藩は帰順し、板倉老中の出身である備中松山藩は開城した。江戸詰の老中稲葉正邦の淀藩は戦い早々に撤退してきた幕府側の入城を拒んでいた。(⇒要するに幕府側は一体になって闘う状況には無かったのだろう。しかし、なぜ?の疑問に対しては前史に溯ることで理解が深まる)
  
2 新政府軍と江戸開城
慶応四年正月六日に始まった鳥羽伏見の戦いがわずか数日で幕府側の大敗で終わった直後、新政府側は東征軍(⇒主力は薩長軍)を東海道、東山道、北陸道の各方面に分けて進軍させ、3月15日には江戸城進撃というその前日、幕府陸軍総督の勝海舟と新政府大総督府参謀西郷隆盛が江戸薩摩藩邸にて面談し、徳川氏処分と翌日の江戸城進撃中止と江戸開城について合意する。新政府側は勝との合意を無視して先鋒総督参謀海江田信義(⇒薩摩藩士、西郷、大久保の盟友)が4月11日明け方に兵力を動員して江戸城に入城した。
その間、新政府は、統治体制、官僚組織、財政政策、軍の掌握などに関連した施策を急速に進めた。しかし、外交的配慮が幕府側に比べて遅れていたために、東征に際しては幾つかの問題が発生した。江戸に逃げ帰った慶喜は、当初は新政府に反発していたが「朝敵」にされるや2月12日に寛永寺に閉居し、4月11日未明に江戸城を退去し水戸へ向かった。その後戊辰戦争終了までの幕府側の抵抗については、事項にて述べられる。

3 関東の騒乱
江戸開城後も旧幕府勢力は、市中では上野に彰義隊が残り、江戸周辺では江戸周辺の旧幕府軍と連繋して新政府側と閏4月末ほどまで対峙したが、5月19日に彰義隊が半日で壊滅し、新政府は同日、江戸鎮台の設置と徳川家達を70万石にて駿河府中移封を命じた。

*新政府軍に抵抗した19歳の小藩主のエピソード
 請西藩の藩主主林忠崇の反抗。請西藩は木更津の小さな藩であるが、藩主主林忠崇は、江戸を脱走した旧幕府遊撃隊と連繋して新政府軍に抵抗した。当時20歳程であった請西藩主は、近辺の勝山藩、飯野藩、館山藩等から出兵させ、小田原藩に協力を求め、韮山代官江川英武にも出兵協力を要請し、駿河藩や駿河勤番与力等の応援部隊と合流し、御殿場から甲府へ進撃して占拠を試みたが、山岡鉄舟等の出張などで断念し、上野の彰義隊の戦いに呼応して箱根の関所を守る小田原藩と戦い、最後は後述の東北戦争に参加中に降伏する(⇒請西藩は最後に改易された藩となった。かなり長い困窮生活の後、忠崇は1893年になってやっと華族に復権し、1941年92歳で最後に生き残った大名として逝去)

4 奥羽越列藩同盟と箱館戦争
新政府は鳥羽伏見の戦い直後の正月15日に奥羽諸藩に対して応援を要請する一方、江戸開城後も東征軍は東山道、北陸道を進軍し、奥羽鎮撫総督九条道孝以下は仙台へ派遣され、艦隊は兵を乗船させて太平洋沿岸を北上した。しかし、新政府側が奥羽と越後の諸藩を統治下に置くのは、紆余曲折を経た後、会津藩が降伏する9月22日頃となる。この内戦で、奥羽越列藩同盟を結んで抵抗した諸藩においては、その対応の様は多様であった。
旧幕府の海軍副総裁は、江戸開城後も軍艦の引き渡しに抵抗し、彰義隊に擁された輪王寺宮や関東近辺の旧幕府側抵抗勢力の一部を茨城県の平潟や福島県の小名浜に送っていた。そして、慶喜の静岡移封を見届けた上で前老中板倉勝重、同小笠原長行、前若年寄永井尚  志、前所司代松平定敬等、総勢2500名が8月19日に北海道へ向かい10月25日に函館を占領したが、翌年5月18日に榎本が立てこもった五稜郭が降伏して箱館戦争は終結した。
この戊辰戦争による処罰については、会津藩主松平容保、喜徳父子が死一等を減じて永禁錮、継子とされた容保の子容大が削封に処され、仙台藩主伊達慶邦、庄内藩主酒井忠篤、南部藩主南部利剛、長岡藩主牧野忠訓、二本松藩主丹羽長国などが隠居、謹慎とされたほか、諸藩の首謀者は13人が斬罪と永禁錮に処された。また藩としての処分は石高の削減、転封、削封等に処された。(⇒戊辰戦争による戦死者は8500人程で、内新政府軍と旧幕府軍は大体同数、旧幕府軍の内会津藩が大体半数。近代の内戦としては極めて少ない。例えばアメリカの南北戦争では4年間で60万人程、フランス革命ではナポレオン戦争を含めてではあるが23年間で兵士と民間人がそれぞれ200万人ほどと言われている)。



2019年3月15日金曜日

3月15日(金)  アーレント『活動的生』⑦第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 6 社会の成立

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)
カクテル

第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

6 社会の成立

この節の一言⇒私的領域の公的社会に対し個人はどうするの?

この節では、近代以降に新しく出現した<社会>という領域とはどのようなものなのか、が語られる。アーレントの言う<社会>という概念は新しい概念であり、彼女の政治哲学におけるキーワードの一つだろう。従って当然分かりにくいのだが、一言で言ってしまえば下記のようになると思う。しかし、多分これでは分からないだろう。続いて書いた*印の箇条書きの分と文脈から理解を補うほかはない。本文にも、英文で著者か書いた『人間の条件』の日本語訳には書いてなかったり、意味が同じとは言えないような部分もあり、併せ読んでも難解な部分が多々ある。

<社会>は、私的な家政の領域でも公的なポリスの領域でもない新しい人間集団のあり方を指す概念である。<社会>は私的領域が巨大に拡張したものでありながら、私的なものと対峙するものであり、それまでは私的なものが対峙していたはずの公的なものは次第に内面の自由が保障される私的領域へと押しやられるようなものである。<社会>とは、その個々の内部において共通の利害関心によって束ねられた、同じ態度ふるまいを求められる、最終的には画一主義に基づく、統治者のいない自主的な統治形態である。「<社会>とは、とにかく生きることというただ一つの究極目的のために、人間同士が互いに依存し合うこと、ただそのことのみが、公的意義を獲得するような共存の形態である。」(pp.57)

<社会>は、近代個人の発見、家族の崩壊とその拡大吸収、私的領域からの自由労働解放、近代科学の手法によって出現し発展してきた。ルソーによって自覚的に発見された内面性の自由を核心とする近代個人は、その社会自体が本質的に持っている水平化傾向に対する反発から生じたのだが、誤解してはならないのは、この水平化傾向は近代の理念とされている平等とは無関係なことである。
しかし何故そうなってきたのか、「それは、<社会>によって、生命プロセス自体が、多様このうえない形態において公的なものの空間に導き入れられたからである。」(pp.56)という。著者のパースペクティブはここでまた焦点を、生物プロセスの循環の世界へと遠方へ移される。

最後に、近代以降出現してきた<社会>は、個々の人間の卓越性が住む場所を奪うとともに、人類の進歩のお陰でわれわれ自身が住んでいる世界という場所を急激に変えているが、この世界という空間の変化自体が問題であることが指摘される。社会科学は人間のふるまい方の変化だけを、人間的実存に関する心理学的解釈だけを問題にしているにすぎないからであり、公的なものは、卓越性がそれに相応しい場所を見出すことができる限りで、世界の空間となることが出来るからである。

*「家政という内なるものが、それに属する活動、配慮、組織形態とともに、家の暗がりから、公的に政治的な領域の光あふれる外に出てきたとき、社会的なものの空間が成立した。」(pp.46)
*現代のわれわれにとっての私的なものとは、内面性の領域を言い換えたものに、ほかならず、古代ギリシャでは全く見知らぬものであった
*内面的なものの最初の自覚的発見はジャン-ジャック・ルソーで、彼をして内面的なものへ導いたのは、社会の中で人間の心が耐えがたく歪められることに対する反抗であった
*内面的なものも社会的なものも家屋敷や公的場所のような明確な領域を持てないから、それらは主観的な何かとして現れる。ルソーは両者を人間的実存の形式として捉えた。近代的個人は自分自身の社会的存在に対する心のこの反抗において生まれた。
*近代的個人は、社会の内で居心地よく感じることも、社会の外部に生きることも、どちらも出来ないという二重の無力さから生じる無限の内的葛藤状態のうちへ巻き込まれていく
*このルソーの発見の真正さは、以降の多くの人により確証されており疑いの余地はない。18世紀の中頃から19世紀の2/3が過ぎようとする頃まで、詩や音楽や小説が発展して、社会的なものを真の内実とする独立した芸術形式となった。公的な芸術形式、とりわけ建築は没落の憂き目に遭った。これらのすべては、内面的なものと社会的なものがいかに相互に密接に関係し合っているかを示している
*社会に対する反抗の対象は、とりわけ、今日われわれが画一主義と名づけている社会の水平化傾向である。この社会の水平化傾向はあらゆる社会の徴表であって、平等の原理に基づくものではない
*この水平化傾向に対する反抗が始まったのは、トクヴィル以来往々にしてわれわれが画一主義に対する責任を負わせる平等の原理が、社会体や政治制度においてじわじわと本領を発揮するよりも以前であった(⇒トクヴィル批判も含意されている)
*<社会>は、それに属する人々全員に、一個の大家族を構成する成員のように振る舞うことを常に要求する。なぜなら、社会的なものの興隆と家族の崩壊が期を一にして起こり、それらの家族は、その生活水準を同じように維持できる集団としての個々の社会に吸収されたからである(⇒そのような個々の社会は階級を作ったはず)
*従って、そのような個々の社会の構成員は、共通の利害関心を持つことにおいて水平化しているのであって、対等同格を旨とする平等という状態とは無関係であり、むしろ家父長の専制的権力の下での家族の全構成員の平等と同質である
*利害関心が一致する多くの家族が加算されて一個の集団と化した社会においては、その利害関心の力も加算されて強力になり、その力自体が家長の権力に代わる役割を果たすようになる。「まったき自発性において完全な一致が達せされる、われわれになじみの画一主義は、この発展の最終段階にすぎない。」(pp.50)
*一者の支配という君主制的原理は、古代では家政に典型的な組織形態と見なされ、絶対王政の宮廷ではその家政に代表されるのだが、近代社会においては一者の支配ではなくて、その代わりに誰も支配も統治もしないが支配自体は存在するという事態に至る
*誰も支配しないという現象は、いかなる人格とも結びついていないからといって専制的ではないということではない。国民国家の発展の初期段階においては啓蒙専制的な絶対君主制が、最終段階では官僚制の支配がそのことをよく教えている
*「最終的にこの現象にとって決定的なのは、ひとえに、社会がそのすべての発展段階において、家政と家族の領域がかつてそうしたのとまったく同様、<行為>を排除するということである。<行為>の代わりとなるのが、態度ふるまい(=Sich-Verhalten⇒自らとる態度、「忖度」とか「空気を読む」という訳もいいかも)である。」(pp.50)
*<社会>がこの態度ふるまいを規整するために指定する無数の規則は、個々人を社会的に規格化しては社会の務めを果たせる者に仕立て、自発的な行為も卓越した業績も阻止するという点に帰着する
*ルソーにとって問題だったのは因習に囚われた上流社会のサロンだった。個人と社会的地位とのこの同一視にとっては、半封建制的、19世紀の階級社会、現代の大衆社会等、どのような秩序の枠組みにおいて行われるかは比較的どうでもよいことだ
*20世紀には最終的に、大衆社会が社会的階級と形成された集団を吸収してその内部を水平化した。大衆社会は、社会の外部に立つ集団がもはや存在しない段階である
*公的なものの領域を社会が征服したという事実は、そのことが政治的にも法的に承認されたことであり、そこでは卓越性と独自性の発揮は自動的に個々人の私的関心事と化している
*近代的平等(Egarität)は社会の画一主義に基づいている。Egaritätは古代ギリシャのポリスにおいて周知であった同等(Gleichheit)とはあらゆる点で異なっている。
*Gleichheitはポリスの公的空間において、同意同格の「同等の人々」に伍してして生を送ることの許された特権的小規模集団に属することを意味し、そこでは誰しも卓越性を試す可能性を持ち、この可能性のためにこそ公務の負担と重さを進んで引きうけた
*<社会>の成立と踵を接して起こった科学である国民経済学もこの画一主義に基づいている。かつての経済学は、人間が経済においても依然として行為する存在であると想定していたが、いまや科学によって、態度ふるまいの形式を研究して斉一的に体系化することが可能となった
*統計学にとっては<行為>という偏差は取るに足りないことになってしまい、そこからは経済学の本当の意義を見出すことは出来ない。それは丁度、歴史の進展自体を中断させる希な出来事がその進展の本当の意義を示すのと同様である。
*数量の大きな領域では、統計的法則が妥当する。政治においていえば、政治的構成された共同体(ゲマインシャフト)の人口が多いほど、非政治的で利益社会(ゲゼルシャフト)的な要素が、公的領域の内部で優位を占める事態が増えることを意味している
*ギリシャ人達は統計学を知らなかったが、ポリスが存立するのは市民の数が限界内に抑えられているときだけであるという事実ならよく知っていた。彼らは、ギリシャ文明とは異質な、画一主義、行動主義、自動機構を特徴とするペルシャ文明を知悉していたからである
*現代において、<社会>は日常的なものの「幸福」しか知ろうとしない。それゆえ、社会科学のうちに、自分自身の実存に見合った「真理」を求めて見出す
*均一化された態度ふるまいは、統計学的、科学的に取り扱うことが出来る。だが、アダムスミスの「神の見えざる手」を含めて、古典派経済学が設定した仮定と理論、つまり利害関心の自動調和的な自由主義的仮定の下で、対立し合う利害関心の調和を繰り返すという理論では十分とは言えない
*マルクスと自由主義的経済学者達との相違は、彼が対立し合う利害関心という事実を真面目に受けとめ、そこから「人間の社会化」は利害関心の調和化に自動的に至るという結論(⇒資本の自己運動と資本主義的体制の自動的崩壊)を引き出した首尾一貫性である
*マルクスはまた、「一切の経済学理論の根底に存する「共産主義的虚構」を実際に確立しようとする彼の提案が、彼の先行者達の理論よりも、とりわけ気概に富む点で傑出していた」のも同様である。」(pp55)(⇒多分、同様というのは首尾一貫性についてだろう)
*当時はまだ困難だったのだが、マルクスが理解していなかったのは、共産主義社会の萌芽はすでに国民経済のリアリティーの中に予め形成されていたということ、そしてこの萌芽の開花が、階級の利害関心に因って起こるのではなく、古臭くなっていた君主制国民国家の構造によって妨害されていたということである
*社会が完全に発展し、他の一切の非社会的要素に勝利を収めれば、社会は必然的に「共産主義的虚構」を生み出す。この虚構の徴表は、そのなかではげんじつに「見えざる手」による支配がなされ、その支配者は一個の誰でもない者だという点にある
*現代の大衆社会の状況は「あたかも、ほかならぬ人類が、人間性を死滅させることが出来るかのようである。」(pp.57)
*「<社会>とは、とにかく生きることというただ一つの究極目的のために、人間同士が互いに依存し合うこと、ただそのことのみが、公的意義を獲得するような共存の形態である。」(pp.57)
*「活動が私的に行われるか公的に行われるかは、決してどうでもよいことではない。明らかに、公的空間の性格は、いかなる活動が公的空間を満たすか、に応じて変化する。他方で、活動それ自身も、私的になされるか公的になされるか、に応じてその本性を変える。」(pp.58)
*<社会>の出現に伴って労働は公的領域へ解放されたが、それが生命プロセスの必然的活動であるという性格は寸毫も変わっていない。その結果、労働プロセスは生命の永遠回帰の円環から解放されて急激に進歩する発展のうちに駆り立てられた。
*「社会はいわば、自然的なもの自体の不自然な成長とでもいうべきものを解き放ったのである。」(pp.58) 。「自然的なもの自体の不自然な成長」とは普通、労働生産性の絶えざる加速と記述される
*<社会>やその膨張は、一方では私的かつ内面的なものの、他方では狭義の政治的なものの、無力さを明らかにした
*分業とそれに続く生産性の上昇は、労働が公的なものであるという条件の下ではじめて成し遂げられるものである。というのは、分業という労働の組織化の原理が明らかに私的なものではなく公的なものであるからである
*卓越性はという言葉は、ギリシャ語でもラテン語でも、徳が発揮される場という意味であって、そのような場は、つねに公的なものの領域であり、現前する他者と自分との隔たりを生み出す形式的枠組みと空間を必要とする
*<社会>においては、卓越性は個人ではなくて人類の進歩のお陰とされるから匿名化される。だからといって公的業績と個人の卓越性との関係は否定し去ることは出来ないのは、労働が私的ではなく公的となり、行為と言論が私的で内面的領域へと劣化しつつ閉じ込められたからである
*「われわれが労働と制作により獲得するものと、労働と制作によって作られたこの世界のうちでわれわれ自身が活動する当の仕方との間の奇妙な不一致については、しばしば指摘されてきた。」(⇒奇妙な不一致とは、簡単に言うとチャップリンの「モダンタイムス」のような事態のことか)
*奇妙な不一致について一般に言われているのは、科学技術の進歩に人類の進歩が追いつかない(⇒というよりも、日常生活のリアリティーが追いつかないことだろうと思うが)というだろうが、それは依って立つ視点がずれた判断である(⇒といいたいのだろうと思う)
*(⇒この視点のズレは、現代社会に対する批判が問題にしているのは「人間のふるまい方が変化している」ことを問題とし、この問題を解くために社会科学が科学的方法である「心理学」を人間に適用しようとするからである)
*問題とすべきは「人間がそこに住み、そのうちを動いている世界が変化していること」である
*心理学的解釈なら公的空間の存在や世界のリアリティーも問題にすることは出来ず、そのような解釈をする能力はただ教えれば身につくもので卓越性は必要とせず、公的なものを形づくる当のものは、社会科学的な心理学的解釈で埋め合わせることは出来ない
*「まただからこそ、公的なものは人間がおたがいしのぎを削り、卓越性がそれにふさわしい場所を見出すことのできる、そうした世界の空間となるのである。」(⇒だからこそ、の「だから」は推測するに、生命の必然ではなく人間の自由が行為という活動を実現するのだ、ということなのだろうが、この節の文脈からは不分明)

2019年3月10日日曜日

3月10日(日) アーレント『活動的生』⑥第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 5 ポリスと家政

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)
ベルサイユの薔薇

第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

5 ポリスと家政

この節の一言⇒古代のギリシャに公私の区分の源流を訊ねて

私的と公的という二つの領域を区分するという意識や思想および、この区分立てに基づく生活空間は、少なくとも古代都市国家の開始から現在に至るまで存在してきた。それ以前、あるいは古代都市国家の外にも当然に社会は存在しただろうが、そこには生きるための必然が強制する暴力の支配する世界、あるいは別の言い方をすれば全てが私的な空間であっただろう。
しかし、この二つの区分立ての内実は歴史と共に変遷し、近代以降においては、古代ギリシャにおいては公理のごとく当然とされていたこの区分立てを理解することすら異常に困難になっている。そのことを理解するためのキーワードは、公的と私的の二つの領域とは別に出現してきたもう一つの領域、<社会>という中間的領域の概念である。近代においては、ギリシャのポリスとは逆に、政治は社会の一機能であるということが公理と化した前提の一つにすぎなくなっている。
古代ギリシャにおいては、公的空間は「ポリス的なものの空間」であり、そこでの活動は「万人に共通な世界に定位した活動」であり、自由の概念はこの空間において成立するものであった。私的空間は「家政の領域」であり、そこでの活動は「生命の維持に奉仕する活動」であり、必然の概念はこの空間において成立するものであった。

・政治的なものを社会的なものと同一視すると言う誤解は、ギリシャ語の概念がキリスト教的思想に適合させられたことと同じだけ古いが、近代以降に<社会>という近代的概念が生じたことが事態を一層決定的に複雑化した
・近代の開始以来、いかなる人民組織も政治共同体も、大きく成長した家政機構のイメージで捉えられ、そのイメージを対象とする科学的思考はもはや政治学ではなくて国民経済学もしくは社会経済学と呼ばれている
・都市国家は私的なものの犠牲の上に生じたのだろうが、そのことが徹底していた古代ギリシャにおいてさえ、市民の私的領域はポリスによる破壊から守られていた。「なぜなら、自分自身のものと本当に呼べる場所がなければ、共通世界のどこにも場所を持たないに等しいからである。」
・古代ギリシャでは、家政において生活の必要を賄うことがポリスにおいて自由を手に入れるための条件であったから、政治とは、社会の安寧のために必要であると解することは到底出来るはずがなかった
・前記の社会とは、中世では信仰者の社会、ロックでは有産者の社会、ホッブズでは営利社会、マルクスでは生産者の社会、現代の西側諸国では定職者の社会、社会主義や共産主義の社会では労働者の社会である
・前記のいずれの事例でも、政治が持つ権力を制限することを正当化するのは社会の自由であり、そこでは自由が社会的なものに位置づけられ、強制や暴力は政治的なものに場所を指定され、かくして国家の独占物となる
・ギリシャの哲学者たちは、強制と暴力は私的領域ででのみ正当化されると考えていたが、それは、例えば奴隷を支配するという暴力を行使してこそ、人間は生きている限り押しつけられる必然から解放されて、世界の自由へと赴くことが出来るからであった
・古代ギリシャ人にとっては、この世界の自由とは、彼らが幸福(エウダイモニア)と呼んだものにとっての条件でり、それは世界における客観的状態を全体的に形づくるもの、つまり健康や裕福と、どうしても結びついていなければならなかった
・奴隷は単なる貧乏人とは違って、生命維持という肉体上の必然に加えて、人間による暴力の支配を受けるという二重の不幸に甘んじねばばらず、自由人にとっては、安定した所得と結びついた奉仕義務は、自由を制限するものと感じられていた
・ポリス以前の暴力による強制状態は、17世紀の思想家達が呼ぶ「自然状態」とは全然違っている、というのは、彼らは「国家はこれはこれで、一切の暴力と権力を独占し、「万人をひとしなみに恐れさせておく」ことにより、「万人に対する万人の戦争」終息させるからである。」と考えていたからであろう
・(⇒著者はポリス以前の人間社会を、人間の条件の視点から推定して記述しようとしているのに対して、ホッブズ等の言う人間の「自然状態」は国家権力の正当性を主張するためのイデオロギー、あるいは捏造されたフィクションである、と言っているのでは)
・現代人は、支配-被支配、権力-国家―統治といった概念の組み合わせこそ、政治的なものだと解しているが、そのような政治秩序の概念の総体は、かつては逆に、ポリス以前と見なされていた
・ポリスにおいては同等の者のみが存在し、家政の秩序は同等でないことに基づいていた、つまり同等とは、自分と同等なものとのみ係わりを持つことだったから、われわれのイメージする平等とは殆ど共通性を持たない。同等は、近代になると、正義の要求である平等を意味することになるが、古代においては逆に、つまり平等でないことが前提されている自由というものの本質をなすものだった
・政治は社会の一機能に過ぎず、行為、言論、思考は、社会的利害関心の上部構造をなす、とする見方は、マルクスの発見でも捏造でもなく、近代においては疑うことの困難な公理と化した前提の一つに過ぎない(⇒公的領域であるはずの政治は、ポリス社会においては私的領域である家政とみなされるであろう<社会>の一機能に成り下がっている)
・近代における<社会>の成立共に、かつては私的領域に属していた全ての関心事は、今や万人にかかわりのあることとして、「集合的」関心事となった。「かくして現代世界において、この二つの領域は、たがいにたえず入り混じり、一方から他方へ移行し合う。あたかも、不断に流れる生命プロウズスそのものの流れに浮かんでは消える波にすぎないかのように。」
・家政とポリスの間には、日々勇気を持って跨ぎ越えねばならない裂け目があったが、近代において消失した。中世には、この乗り越えるべき裂け目自体は聖と俗の区分によって生じていたが、古代と中世ではその意義も意味も異なっていた
・古代と中世の本質的な相違は、教会が彼岸に結びついていたことに基づいている。その結果、聖の方を公的に等置するのは可能としても、それによって私的領域に押しやられた俗の方は本当の意味での世俗的、つまり公的領域には入りようがなかった。人間の全活動が私的領域に押しやられたのが中世の目立った特徴である
・中世における、人間の全活動の私的性格化は、あらゆる人間関係の私的性格化をもたらし、その影響は中世都市の職業組織(⇒商人組合のギルドや手工業者組合のツンフト)や初期の商業組合(カンパニー、一緒にパンを食べる人達)にまで溯ることが出来る
・「共通善」(⇒支配の正統性の根拠とされる政治思想の一つ)という中世の概念は、公的に政治的な領域の存在を表すのでは全くなくて、人々が皆、次のことを承認していたことの証しである。つまり、私人は共通の利害を持ちうる、その利害は精神的なものでも物質的なものでもよい、各個人がひたすら自分自身の関心事に専念できるのは彼らのうちの誰か一人が万人に共通する利害の面倒を見ることを引きうける、ということ、これである
・「共通善」の承認は本質的にキリスト教的な態度(⇒中世の政治的態度+全ての人間活動が私的領域に押しやられている)であるのだが、この態度が近代の態度と区別される根拠は「共通善」が承認されているか否かではなく、むしろ私的領域の排他的独占と、われわれが現在<社会>と呼んでいる奇妙な中間領域の欠如である
・公的領域と私的領域の中間にあって、私的利害に公的意義が帰されている領域こそが、われわれが<社会>と呼んでいるものである
・トロイヤ戦争のような冒険に乗り出す時のように、ポリス的空間に乗り込もうとするものは誰でも、何よりも先ず、自分自身の生命を危険にさらす用意がなければならなかった。命にむやみに執着するのは奴隷根性の証拠と見なされた(⇒原注に、古代の奴隷についての解説が記載されている)。かくして勇気は、ポリス的枢要徳とされた
・ギリシャ思想は、ギリシャ人の政治意識の根底に存し、公私の区分立てを比類なき明晰さと精確さで表現した。生活の糧や生命プロセスの維持という目的に仕えるだけの活動は、公的空間に現れることを認められなかった。その結果、アテナイは事実上、「消費者プロレタリアート」の住む「年金生活者の都市」と化した
・アリストテレスはポリスの生を、「正しく善く生きること」と呼んだが、生が「善い」と呼べるには、生活の必然から解放され、生存本能をある意味で克服した結果、生命プロセスの奴隷に成り下がった状態から相当程度抜け出ることに成功する限りであった
・しかし一方、ポリスと家政を隔てる境界がすでにぼやけ始めてもいることは、プラトンがポリスに関する対比や例示を私生活からの具体例をもって好んで示していることからも覗える
・「善く生きること」を目指すという点においての、ソクラテス学派の教えは、その動機こそ公的生の重荷から解放されたいという願望にあったが、この願望を正当化するには、自由なポリス的生ですら家政的生の必然の支配に服していることを示さねばならなかった(⇒ヘーゲルの言う普遍と個別の弁証法の元ネタか)
・ソクラテス学派のこの教えは、当時としては全く革命的な考え方だった(⇒人間に内在する実存に価値を認める考え方において)。ポリス市民にとっては、家政の領域内に生きることの唯一の存在理由は、ポリスのうちで「善く生きること」だったからである

2019年3月7日木曜日

3月7日(木) アーレント『活動的生』⑤第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域 4 人間は社会的動物か、それとも政治的動物か

ハンナ・アーレント『活動的生』(森一郎訳、みすず書房)

「 」内は本文引用、< >内はアーレントのキーワード(必要に応じて)。
バレリーナ


第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域

4 人間は社会的動物か、それとも政治的動物か

この節の一言⇒節の標題と同じ

この節では、古代ギリシャのポリスにおけるポリス的生き方が記述される。記述する視点は活動的生の三契機、とりわけ<行為>の部分である。著者は、歴史上のある条件のもとで出現した古代ギリシャ市民のポリス的生活に、活動的生の<行為>が顕現していることを発見したのだろうと思う(⇒その記述された内容はにわかに信じられないと同時に憧れさえ抱きそうになる)。ローマ時代になると、古代ギリシャ市民にとっての政治的生き方は、ローマ人にとっては社会的生き方と同じようなものと理解されていく。



・アリストテレスの人間規定「人間とはポリス的生き物である」のセネカのラテン語訳では「ポリス的生き物」が「社会的動物」となる。最終的にはトマスは「ポリス的」=「社会的」と記述する

・「社会的」という言葉はラテン語にしかなく、それに相当するものはギリシャ人の言語にも思想にもない

・ラテン語の「社会的」という語には、初めは限定的にであったが政治的意味が含まれており、後に「社会的」であること、すなわち社会の中で生きることは人間の本性に属すると考えられるようになった

・ギリシャ人は、ラテン語の「社会的」という意味を人間的なものに特有な基本条件の一つとは考えられず、動物として共通のものと考えていた

・ギリシャ人にとっては、政治的組織を作る能力は、家を中心にして営まれる自然的共生と区別されるだけではなく対立したものであった

・アリストテレスによれば、ポリスの創設は自然的な部族団体をすっかり解消した後に行われたのであり、またこれは歴史的事実でもある

・ギリシャ人にとって真にポリス的なものは、行為と言論の二つの活動だけとみなされており、それはプラトン、さらにホロメスの時代にまで溯る

・ギリシャ人にとっては、思考とは言論から生じるものでその逆ではなく、言論と行為とは等根源的なものであった。しかるべき瞬間にしかるべき言葉を見出すということ自体が、すでに行為だからである。「沈黙しているのは暴力だけである。つまり、口がきけないから暴力をふるうのだ」

・プラトンに始まる政治哲学にしても、ポリスの言語本位の経験世界から生まれた。ところが、次第に行為と言論は切り離されていって、眼前の出来事に対する応答や抵抗時の際立ったやり方であった言論が、説得手段としての弁論となった

・ギリシャ人にとっては他者を説得する代わりに命令すること、説得に代わって暴力で強制することは、ポリス以前の人間関係のあり方であった

・ポリス以外の生活、つまり家や家庭の生活では、家長は家や家庭に属するものに対して専制的な権力を行使した

・ギリシャ人にとっては、アジアの野蛮な帝国は、家の場合と同じに考えられた

・アリストテレスは、人間は政治的動物であると規定したが、その拠り所の経験はポリスの生活の経験であり、人間的共生の自然領域の外側であった

・アリストテレスのもう一つの著名な人間規定に、「人間とはロゴスを持つ生き物である」というのがあって、ラテン語では「人間は理性的動物である」と訳されているが、この訳は社会的動物という概念と同じく根本的な誤解に基づいている。なぜなら、アリストテレスにとって人間の最高の能力とは、語りつつ議論し、議論しつつ思考すること、ではなくて、観想の能力であったからである

・アリストテレスの人間規定だと一般に信じられているものは、実はポリスの住人であるかぎりでの人間の本質に関する、ポリス住民のありふれた見解にすぎない。奴隷や野蛮人は

「ロゴスを欠いている」人々という言葉で呼ばれたが、これはポリスの外で生活する、語ること自体が無意味である人々という意味である